甲武鉄道の砂利線 ミニレポートですが、甲武鉄道の砂利線を掲載しました。写真は今年の春に撮って来たものですが、現場は前々から気になっていた場所でもあります。以前ボードで情報も頂いていたような… > 甲武鉄道の砂利線 < トラックバック(0) トラックバックURL コメント(15) musashimarumaru 2007.7.15 返信 おぉ!下流側にも砂利線があったのですね。 空中写真や地上の写真をみると名残であることに間違いないようですね。 五日市郷土館で五日市鉄道の展示があったときの展示物の「拝島停車場平面図」に描かれていた「西尾砂利線」について途中まででしたので、また、調べてみたくなりました。 拝島駅から出ていた「東京府拝島側線」は大正10年~昭和28年ごろまで稼動していたそうです。H.Kumaさんレポートにあります「東京市財務局線」と同じルートのようでした。 H.Kuma 2007.7.15 返信 musashimarumaruさん、こんにちは。 この築堤、一番古い写真では戦後すぐの米軍撮影のものにも観察出来るので、少なくとも近代に新しく作られたものでは無さそうですね。 拝島の「東京市財務局線」の名は、トワイライトゾーンMANUAL4 のトワママさんの記事で知りました。正式には「東京府拝島側線」という名称なのでしょうかね。 musashimarumaru 2007.7.15 返信 米軍撮影の古い空中写真にも築堤が確認できるのですね。 拝島の砂利線の名前はトワイライトゾーンMANUAL4からだったのですね。(残念ながらこの号のバックナンバーはもう入手できないようでした) これで、西尾砂利線の謎は、また深まりました。線路を延長していくと、奥多摩バイパス付近で合流して同じ採取地に向かうように想像していました。 やまいも 2009.7.3 返信 はじめまして、よく見ています。この砂利線は、明治25年に敷設、同28年に延長工事を行い現国道20号線の日野橋やや上流付近まで伸びていた全長約1600m規模の路線で砂利の出荷先は、主に淀橋浄水場建設現場(現東京都新宿区)だったようです。多摩地区最古級の廃線跡かもしれませんね。 H.Kuma 2009.7.4 返信 やまいも様、初めまして …って感じがしないのは、いつも musashimarumaruさんのブログで貴重な情報のコメントを拝見しているせいでしょうか。近辺の事を良くご存知で、また精力的に調べていらっしゃいますね。感服しております。 この砂利線、1.6kmもあったのですか。私はもっと小規模なものと思ってました。 淀橋浄水場の建設にも使われたという事で、新宿のあの引込線を経て搬入されたのかな? 後ほど記事の方にも追加情報として付記させていただきたいと思います。 やまいも 2009.7.5 返信 H.Kumaさんやmusashimarumaruさんのような休日の過ごし方に「見習なくては」と”休日、家でゴロ寝派”の私は、いつも平服しておりますよ。さて「多摩のあゆみ」102号「特集”多摩の産業遺産”」の(多摩川と砂利採取、三村章氏)に詳細な調査報告が掲載されていました。特集内の地図(明治17年測量、同29年要修正、印刷の2万分図)に砂利線の記載が見られますが、「多摩のあゆみ」70号の記述に酷似した様子が伺われることから、当初の敷設状況と思います。 H.Kuma 2009.7.5 返信 やまいもさん、情報ありがとうございます。 「多摩のあゆみ」102号ですか、今度近くの図書館でみてみますね。 さて、記事の方にコメントいただいた内容を追記しておきました。 musashimarumaru 2009.7.6 返信 甲武鉄道の砂利線について詳しくわかってきましたね。私のコメントの中にあった「謎の」西尾砂利線につきましてもこの記事をきっかけに調べ、やまいも様のご協力もあって明らかになってきました。H.Kumaさんはご存知ですが、その状況をトラックバックさせていただきます。 中央線の多摩川橋梁には、少なくなりつつある甲武鉄道時代の橋梁や煉瓦による橋脚等の鉄道遺産が残っているそうですね。 H.Kuma 2009.7.6 返信 musashimarumaruさん、どうもです。 西尾砂利線なんてのは私も全く知らない存在でしたので、こうやってまとまった物を読ませていただくと実に興味深いですね。 多摩川橋梁は上り線側の橋脚が煉瓦積みで、確かにかなりの年代物のようでした。 http://hkuma.com/rail/image/tamaga3.jpg やまいも 2009.11.26 返信 お詫びと訂正です。この砂利線の規模は、約704m(35鎖)でした。先に誤報を流した後、旧甲州街道や日野の渡し、聞き取り調査などの地域資料を探っても、日野の渡しの近くで同街道と交差していたはずの砂利線についての記録がなく、付近で採掘した砂利は、馬車で立川駅まで運搬されていたという話ばかりなので疑問を感じ再調査して分かったことです。誤報の基は、明治28年10月28日付の「多摩川砂利採掘用線路延長許可願」で採掘請負者、砂利会社、日野町、立川村の各代表者連名で東京府知事宛に提出された文書。これを見て早合点してしまったものであり、よく見ると末尾に”(注)申出に依り本書下戻す”同年12月18日とありました。願書を取り下げたようです。私の早合点、お詫び致します。訂正の出典先は「東京都公文書館所蔵 鉄道関係史料 明治39年」(たましん地域文化財団蔵)からです。これには、廃止前の路線図、廃止の理由書(同線沿いの砂利採掘量が減ったので上流側に新線を敷設したいという内容で明治37年8月1日付にて甲武鉄道より逓信大臣宛に提出)がありました。また、この理由書の末尾に読解不明ですが、「使用期限を明治38年12月末日とす」とあり、この砂利線(多摩川砂利運搬側線と表記している)のことを指しているかもしれません。一方の上流側線は、明治38年に地域の有力者(紅林徳五郎氏)によって開業しており翌39年に甲武鉄道が買収という流れから砂利線の廃止時期は、同38年の上流側線開業前後とおおよその推測ができますね。 H.Kuma 2009.11.26 返信 やまいもさん、修正情報ありがとうございます。 詳細に資料をあたっていただいたようで、恐れ入ります。 下流へ704mという事だと、残堀川が合流して来るちょっと手前あたりのようですね。 それだと、甲州街道と交差した記述が出て来ないのと矛盾しませんね。 しかしある意味この砂利線は、上流側の砂利線のルーツという事が言えそうです。 後ほど記事の方にも反映させておきますので。 やまいも 2012.5.9 返信 上記と若干の年月誤差ありますが、「多摩川砂利」にて検索して行くと、往時の事業内容が、これまで以上に掌握できる資料に出会えます。 H.Kuma 2012.5.9 返信 やまいもさん、お久し振りです。 > 「多摩川砂利」にて検索して行くと、往時の事業内容が、これまで以上に掌握できる資料に出会えます。 ひょっとして京浜工事事務所の「多摩川誌」でしょうか。 何度か読んだ事はありますが、この砂利線についての記述は気がつきませんでした。 もう少し私も研究が必要ですね。 やまいも 2012.5.10 返信 「工学会誌」で一発ヒットします。 第26巻(明治40年)「多摩川砂利採掘事業ノ梗概」で閲覧できます。 H.Kuma 2012.5.10 返信 「多摩川砂利採掘事業ノ梗概」ですか。 ネット上でこんなすごい資料が公開されてるんですね。 ジックリと読んでみたいと思います。 コメントする 名前、ニックネーム URL(任意) ログイン情報を記憶 コメント
musashimarumaru 2007.7.15 返信 おぉ!下流側にも砂利線があったのですね。 空中写真や地上の写真をみると名残であることに間違いないようですね。 五日市郷土館で五日市鉄道の展示があったときの展示物の「拝島停車場平面図」に描かれていた「西尾砂利線」について途中まででしたので、また、調べてみたくなりました。 拝島駅から出ていた「東京府拝島側線」は大正10年~昭和28年ごろまで稼動していたそうです。H.Kumaさんレポートにあります「東京市財務局線」と同じルートのようでした。
H.Kuma 2007.7.15 返信 musashimarumaruさん、こんにちは。 この築堤、一番古い写真では戦後すぐの米軍撮影のものにも観察出来るので、少なくとも近代に新しく作られたものでは無さそうですね。 拝島の「東京市財務局線」の名は、トワイライトゾーンMANUAL4 のトワママさんの記事で知りました。正式には「東京府拝島側線」という名称なのでしょうかね。
musashimarumaru 2007.7.15 返信 米軍撮影の古い空中写真にも築堤が確認できるのですね。 拝島の砂利線の名前はトワイライトゾーンMANUAL4からだったのですね。(残念ながらこの号のバックナンバーはもう入手できないようでした) これで、西尾砂利線の謎は、また深まりました。線路を延長していくと、奥多摩バイパス付近で合流して同じ採取地に向かうように想像していました。
やまいも 2009.7.3 返信 はじめまして、よく見ています。この砂利線は、明治25年に敷設、同28年に延長工事を行い現国道20号線の日野橋やや上流付近まで伸びていた全長約1600m規模の路線で砂利の出荷先は、主に淀橋浄水場建設現場(現東京都新宿区)だったようです。多摩地区最古級の廃線跡かもしれませんね。
H.Kuma 2009.7.4 返信 やまいも様、初めまして …って感じがしないのは、いつも musashimarumaruさんのブログで貴重な情報のコメントを拝見しているせいでしょうか。近辺の事を良くご存知で、また精力的に調べていらっしゃいますね。感服しております。 この砂利線、1.6kmもあったのですか。私はもっと小規模なものと思ってました。 淀橋浄水場の建設にも使われたという事で、新宿のあの引込線を経て搬入されたのかな? 後ほど記事の方にも追加情報として付記させていただきたいと思います。
やまいも 2009.7.5 返信 H.Kumaさんやmusashimarumaruさんのような休日の過ごし方に「見習なくては」と”休日、家でゴロ寝派”の私は、いつも平服しておりますよ。さて「多摩のあゆみ」102号「特集”多摩の産業遺産”」の(多摩川と砂利採取、三村章氏)に詳細な調査報告が掲載されていました。特集内の地図(明治17年測量、同29年要修正、印刷の2万分図)に砂利線の記載が見られますが、「多摩のあゆみ」70号の記述に酷似した様子が伺われることから、当初の敷設状況と思います。
H.Kuma 2009.7.5 返信 やまいもさん、情報ありがとうございます。 「多摩のあゆみ」102号ですか、今度近くの図書館でみてみますね。 さて、記事の方にコメントいただいた内容を追記しておきました。
musashimarumaru 2009.7.6 返信 甲武鉄道の砂利線について詳しくわかってきましたね。私のコメントの中にあった「謎の」西尾砂利線につきましてもこの記事をきっかけに調べ、やまいも様のご協力もあって明らかになってきました。H.Kumaさんはご存知ですが、その状況をトラックバックさせていただきます。 中央線の多摩川橋梁には、少なくなりつつある甲武鉄道時代の橋梁や煉瓦による橋脚等の鉄道遺産が残っているそうですね。
H.Kuma 2009.7.6 返信 musashimarumaruさん、どうもです。 西尾砂利線なんてのは私も全く知らない存在でしたので、こうやってまとまった物を読ませていただくと実に興味深いですね。 多摩川橋梁は上り線側の橋脚が煉瓦積みで、確かにかなりの年代物のようでした。 http://hkuma.com/rail/image/tamaga3.jpg
やまいも 2009.11.26 返信 お詫びと訂正です。この砂利線の規模は、約704m(35鎖)でした。先に誤報を流した後、旧甲州街道や日野の渡し、聞き取り調査などの地域資料を探っても、日野の渡しの近くで同街道と交差していたはずの砂利線についての記録がなく、付近で採掘した砂利は、馬車で立川駅まで運搬されていたという話ばかりなので疑問を感じ再調査して分かったことです。誤報の基は、明治28年10月28日付の「多摩川砂利採掘用線路延長許可願」で採掘請負者、砂利会社、日野町、立川村の各代表者連名で東京府知事宛に提出された文書。これを見て早合点してしまったものであり、よく見ると末尾に”(注)申出に依り本書下戻す”同年12月18日とありました。願書を取り下げたようです。私の早合点、お詫び致します。訂正の出典先は「東京都公文書館所蔵 鉄道関係史料 明治39年」(たましん地域文化財団蔵)からです。これには、廃止前の路線図、廃止の理由書(同線沿いの砂利採掘量が減ったので上流側に新線を敷設したいという内容で明治37年8月1日付にて甲武鉄道より逓信大臣宛に提出)がありました。また、この理由書の末尾に読解不明ですが、「使用期限を明治38年12月末日とす」とあり、この砂利線(多摩川砂利運搬側線と表記している)のことを指しているかもしれません。一方の上流側線は、明治38年に地域の有力者(紅林徳五郎氏)によって開業しており翌39年に甲武鉄道が買収という流れから砂利線の廃止時期は、同38年の上流側線開業前後とおおよその推測ができますね。
H.Kuma 2009.11.26 返信 やまいもさん、修正情報ありがとうございます。 詳細に資料をあたっていただいたようで、恐れ入ります。 下流へ704mという事だと、残堀川が合流して来るちょっと手前あたりのようですね。 それだと、甲州街道と交差した記述が出て来ないのと矛盾しませんね。 しかしある意味この砂利線は、上流側の砂利線のルーツという事が言えそうです。 後ほど記事の方にも反映させておきますので。
H.Kuma 2012.5.9 返信 やまいもさん、お久し振りです。 > 「多摩川砂利」にて検索して行くと、往時の事業内容が、これまで以上に掌握できる資料に出会えます。 ひょっとして京浜工事事務所の「多摩川誌」でしょうか。 何度か読んだ事はありますが、この砂利線についての記述は気がつきませんでした。 もう少し私も研究が必要ですね。
musashimarumaru 返信
おぉ!下流側にも砂利線があったのですね。
空中写真や地上の写真をみると名残であることに間違いないようですね。
五日市郷土館で五日市鉄道の展示があったときの展示物の「拝島停車場平面図」に描かれていた「西尾砂利線」について途中まででしたので、また、調べてみたくなりました。
拝島駅から出ていた「東京府拝島側線」は大正10年~昭和28年ごろまで稼動していたそうです。H.Kumaさんレポートにあります「東京市財務局線」と同じルートのようでした。
H.Kuma 返信
musashimarumaruさん、こんにちは。
この築堤、一番古い写真では戦後すぐの米軍撮影のものにも観察出来るので、少なくとも近代に新しく作られたものでは無さそうですね。
拝島の「東京市財務局線」の名は、トワイライトゾーンMANUAL4 のトワママさんの記事で知りました。正式には「東京府拝島側線」という名称なのでしょうかね。
musashimarumaru 返信
米軍撮影の古い空中写真にも築堤が確認できるのですね。
拝島の砂利線の名前はトワイライトゾーンMANUAL4からだったのですね。(残念ながらこの号のバックナンバーはもう入手できないようでした) これで、西尾砂利線の謎は、また深まりました。線路を延長していくと、奥多摩バイパス付近で合流して同じ採取地に向かうように想像していました。
やまいも 返信
はじめまして、よく見ています。この砂利線は、明治25年に敷設、同28年に延長工事を行い現国道20号線の日野橋やや上流付近まで伸びていた全長約1600m規模の路線で砂利の出荷先は、主に淀橋浄水場建設現場(現東京都新宿区)だったようです。多摩地区最古級の廃線跡かもしれませんね。
H.Kuma 返信
やまいも様、初めまして …って感じがしないのは、いつも musashimarumaruさんのブログで貴重な情報のコメントを拝見しているせいでしょうか。近辺の事を良くご存知で、また精力的に調べていらっしゃいますね。感服しております。
この砂利線、1.6kmもあったのですか。私はもっと小規模なものと思ってました。
淀橋浄水場の建設にも使われたという事で、新宿のあの引込線を経て搬入されたのかな?
後ほど記事の方にも追加情報として付記させていただきたいと思います。
やまいも 返信
H.Kumaさんやmusashimarumaruさんのような休日の過ごし方に「見習なくては」と”休日、家でゴロ寝派”の私は、いつも平服しておりますよ。さて「多摩のあゆみ」102号「特集”多摩の産業遺産”」の(多摩川と砂利採取、三村章氏)に詳細な調査報告が掲載されていました。特集内の地図(明治17年測量、同29年要修正、印刷の2万分図)に砂利線の記載が見られますが、「多摩のあゆみ」70号の記述に酷似した様子が伺われることから、当初の敷設状況と思います。
H.Kuma 返信
やまいもさん、情報ありがとうございます。
「多摩のあゆみ」102号ですか、今度近くの図書館でみてみますね。
さて、記事の方にコメントいただいた内容を追記しておきました。
musashimarumaru 返信
甲武鉄道の砂利線について詳しくわかってきましたね。私のコメントの中にあった「謎の」西尾砂利線につきましてもこの記事をきっかけに調べ、やまいも様のご協力もあって明らかになってきました。H.Kumaさんはご存知ですが、その状況をトラックバックさせていただきます。
中央線の多摩川橋梁には、少なくなりつつある甲武鉄道時代の橋梁や煉瓦による橋脚等の鉄道遺産が残っているそうですね。
H.Kuma 返信
musashimarumaruさん、どうもです。
西尾砂利線なんてのは私も全く知らない存在でしたので、こうやってまとまった物を読ませていただくと実に興味深いですね。
多摩川橋梁は上り線側の橋脚が煉瓦積みで、確かにかなりの年代物のようでした。
http://hkuma.com/rail/image/tamaga3.jpg
やまいも 返信
お詫びと訂正です。この砂利線の規模は、約704m(35鎖)でした。先に誤報を流した後、旧甲州街道や日野の渡し、聞き取り調査などの地域資料を探っても、日野の渡しの近くで同街道と交差していたはずの砂利線についての記録がなく、付近で採掘した砂利は、馬車で立川駅まで運搬されていたという話ばかりなので疑問を感じ再調査して分かったことです。誤報の基は、明治28年10月28日付の「多摩川砂利採掘用線路延長許可願」で採掘請負者、砂利会社、日野町、立川村の各代表者連名で東京府知事宛に提出された文書。これを見て早合点してしまったものであり、よく見ると末尾に”(注)申出に依り本書下戻す”同年12月18日とありました。願書を取り下げたようです。私の早合点、お詫び致します。訂正の出典先は「東京都公文書館所蔵 鉄道関係史料 明治39年」(たましん地域文化財団蔵)からです。これには、廃止前の路線図、廃止の理由書(同線沿いの砂利採掘量が減ったので上流側に新線を敷設したいという内容で明治37年8月1日付にて甲武鉄道より逓信大臣宛に提出)がありました。また、この理由書の末尾に読解不明ですが、「使用期限を明治38年12月末日とす」とあり、この砂利線(多摩川砂利運搬側線と表記している)のことを指しているかもしれません。一方の上流側線は、明治38年に地域の有力者(紅林徳五郎氏)によって開業しており翌39年に甲武鉄道が買収という流れから砂利線の廃止時期は、同38年の上流側線開業前後とおおよその推測ができますね。
H.Kuma 返信
やまいもさん、修正情報ありがとうございます。
詳細に資料をあたっていただいたようで、恐れ入ります。
下流へ704mという事だと、残堀川が合流して来るちょっと手前あたりのようですね。
それだと、甲州街道と交差した記述が出て来ないのと矛盾しませんね。
しかしある意味この砂利線は、上流側の砂利線のルーツという事が言えそうです。
後ほど記事の方にも反映させておきますので。
やまいも 返信
上記と若干の年月誤差ありますが、「多摩川砂利」にて検索して行くと、往時の事業内容が、これまで以上に掌握できる資料に出会えます。
H.Kuma 返信
やまいもさん、お久し振りです。
> 「多摩川砂利」にて検索して行くと、往時の事業内容が、これまで以上に掌握できる資料に出会えます。
ひょっとして京浜工事事務所の「多摩川誌」でしょうか。
何度か読んだ事はありますが、この砂利線についての記述は気がつきませんでした。
もう少し私も研究が必要ですね。
やまいも 返信
「工学会誌」で一発ヒットします。
第26巻(明治40年)「多摩川砂利採掘事業ノ梗概」で閲覧できます。
H.Kuma 返信
「多摩川砂利採掘事業ノ梗概」ですか。
ネット上でこんなすごい資料が公開されてるんですね。
ジックリと読んでみたいと思います。