廃線ミニレポート
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2007/07

〜 多摩川橋梁下流に砂利線? 〜

JR中央線の下り電車が立川を出ると、やがて多摩川を渡る鉄橋へと差しかかる。 その鉄橋を渡る直前、カーブを描きつつ左手に離れて行く築堤らしきものがずっと気にかかっていた。 ご存知の通り、このあたりにはかつて甲武鉄道の多摩川信号所があり、またその後そこから上流へ向かっては鉄道省の砂利線、さらに先には多摩川砂利木材鉄道が伸びていた時期もある(*旧記事)が、さて下流へ向かっては何かあったのだろうか。

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国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省
CKT-89-1 平成元年「八王子」C16-18より

調べてみると「多摩のあゆみ」第70号に三村章氏の記事「多摩川砂利木材鉄道」があり、その中に以下の記述があった。

(明治)二十五年 甲武鉄道が多摩川橋梁下流に砂利線敷設(青梅・川越両鉄道建設用のバラスト供給のため。)
※「多摩のあゆみ」70号「多摩川砂利木材鉄道」三村章氏 より引用

ここから上流の福島村へ向かう砂利線の敷設されたのが明治38年との事なので、それより以前は下流域で砂利採取が行われていたようだ。 件の築堤がこの砂利線の名残りなのかどうか確証はないが、位置と線形から見てその痕跡である確率は高そうだ。

※以下、写真は 2007/03撮影
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Photo-1 川土手から中央線を奥に望む
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Photo-2 築堤が川土手に出て来た所
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Photo-3 本線から分岐して徐々に下って来る
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Photo-4 築堤下より立川方面を見る
2009/11追記 やまいもさんよりの情報

この砂利線の規模は、約704m(35鎖)でした。 出典先は「東京都公文書館所蔵 鉄道関係史料 明治39年」(たましん地域文化財団蔵)からです。 これには、廃止前の路線図、廃止の理由書(同線沿いの砂利採掘量が減ったので上流側に新線を敷設したいという内容で明治37年8月1日付にて甲武鉄道より逓信大臣宛に提出)がありました。 また、この理由書の末尾に読解不明ですが、「使用期限を明治38年12月末日とす」とあり、この砂利線(多摩川砂利運搬側線と表記している)のことを指しているかもしれません。 一方の上流側線は、明治38年に地域の有力者(紅林徳五郎氏)によって開業しており翌39年に甲武鉄道が買収という流れから砂利線の廃止時期は、同38年の上流側線開業前後とおおよその推測ができますね。


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