二度目の訪問は、それからしばらく経ったある週末だった。この日はぜひともあの電車に乗ってやろうという意気込みで、それだけを目的に出かけて来たのだ。JR駅の改札を抜け、広場の片隅にある水神森駅へと向かう。駅前に立ち、改めてこの建物を見上げると、どこか懐かしく、それでいて畏敬の念のような気持ちが体の奥から湧き上がって来る。
「なんだろうな、この感じは」と思いつつふと見ると、駅名を記した看板の裏手に、うっすらと昔のペンキ文字跡らしきものが浮かんでいるのに気がついた。「水神杜駅?」昔の駅名は少し字が違っていたのか。
駅へ入り、例のベンチ前まで歩を進める。そぉっと売店の方を見るが、今日はこないだのおばちゃんではなく、若い女性の売り子が届いたばかりの荷物を黙々とさばいていた。時刻表を見上げて次の発車が何時だか調べる。どうせならこの支線の全線を乗って来たいのだが、休日ダイヤのためか、終点まで行く電車はまだ小一時間ほども待たなければならないのがわかった。
少々気抜けして駅の入り口から外を覗く。空は晴れているが、街並みの向こうには黒い雲が湧き上がって来ている。「ちょっとどこかで軽く腹ごしらえでもして来るか」いつも一人で出掛けると、まともにお昼を食べる事のあまりない私だが、この日は少々空腹気味だった。広場の向こう側にバーガーショップが見えたが、これはあまり得意でないのでパス。他に食堂らしき店は見えないが、右手に大きなショッピングセンターの建物がある。
「中に何かあるかな?」と思いつつそちらへ向かって進もうとすると、駅事務所の横にバス停を発見。JR駅正面にはバスプールがあって、大型の路線バスがひしめきあっていたのだが、こんな裏手にもひっそりと乗り場があったのだ。小さなバスが一台発車を待っているが、まだ時間があるらしく、お客は誰もいない。人の良さそうな運転士がベンチで休憩していたので、思い切ってこの辺にどこか食堂がないか尋ねてみた。
彼が言うことには、この道の先に喫茶店があって、そこのランチが安くて美味しくてお勧めだそうな。礼を言い、なだらかに下り気味の
道路を右側にうらぶれたホーム裏手を見ながら歩いて行くと、すぐにその店があった。建物はだいぶ古びているようだが、入り口は良く手入れされており、入るのに躊躇する必要はなかった。
:
「カランカランカラン」「ありがとうございましたー」
ドアベルの音とマスターの声に送られ、美味しい食事に満足した私は足取りも軽く店を出た。やっぱり、仕事でここらを良く分かってる人間に聞いて正解だった。バスやタクシーの運ちゃんは、職業柄良い店を知っているものだ。いい気分で一歩踏み出そうとして、「おっ」と気がつく。いつの間にか雨がビシャビシャと降っている。さてどうしよう…、駅まではすぐだから走って行けない事もないが、それにしても結構な降りだ。
店の前で躊躇してる私に気づいて、中からマスターが様子を見に出て来た。「おや、降り出してたんですね。傘でもお貸ししましょうか。」
「いや、走って行きますよ。」
「それとも、お時間あれば少し雨宿りされたら?通り雨のようですし。珈琲、お代わりお出ししましょう。」
彼は、メニューの書いてある黒板を軒下へ移動させながらそう言った。
「そうですねぇ…。」
少し考えて、マスターの提案を受ける事にした。いや実際、電車に乗り遅れる事をいとわないくらい、美味しい珈琲を出す店だと感じていたのだ。
店内は最初私が入った時に数人の先客がいたが、注文が出て来るまでに皆食事を終わって出て行ってしまったので既に誰もいない。他にバイトらしい若い女の子も店を手伝っていたが、時間が来たらしく途中で帰っていったので、最後にはカウンターを挟んで私とマスターだけが取り残される格好になった。静かな店内に、駅を発車して店の裏手を通過して行く電車の音が響く。「あ、行っちゃったか。」
「次の電車は30分後です。」
「え?よくわかりますね。」
「そりゃ、もうここで何十年も商売してるんでね。体に染み付いてますよ。」
それをきっかけに、珈琲をすすりながらそのマスターには色々とこの駅のあたりの昔話を聞く事が出来た。開通当時、この線は東葛電車と呼ばれていた事、「葛」を別読みした愛称「くず電車」でも人々に親しまれていた事、主にこの奥にある大神宮への参拝客を運んでいた事、僅かながら貨物列車も走っていた事、そして後に別の私鉄に吸収されてその支線となった事など。それから、少々気にかかる噂も教えてくれた。曰く、近くこの駅で大規模な工事が始まるらしい、と。
電車の時間も近づいたので話をそこで切り上げて出て来てしまったが、工事とはいったいどういう事なんだろう。雨上がりで雲の切れ間から徐々に青空の見え出した空の下を、駅へと急ぎながら私はあれこれ思考を巡らしていた。相変わらずガランとした駅へ入り、券売機でプリペイドカードを買って自動改札へと向かう。手にしたカードを良く見ると、そこにはあの電車と共に、マスターの言っていた大神宮の立派な拝殿の写真が写っていた。
天井から吊り下がっている案内表示によると、次の電車は左手ホームからの発車だ。遠くでは既に踏切の警報機の音も聞こえ出している。例によってベンチには老人達が数人、そしてホーム中ほどに前回の駅員が立っていた。彼は顔をおぼえていてくれたみたいで、私に気づくとあっという目をした後にニコっと微笑み、帽子のつばに手を当てて少し会釈をした。こちらも軽く頭を下げて返したが、そうこうしてるうちにもキシンキシンとカーブを回る車輪の軋み音が近づいて、やがて電車の姿が現れた。
それは前に見た茶色い古風な車両ではなく、緑とクリームに塗り分けられた2両編成の近代的な冷房車だった。ホームの有効長が短いため、電車は前回にも増して慎重に車止めへと向かって進み、静かに目の前で停車した。ポツポツと何人かの客が降り、入れ替わりに何人かの客が乗り込んで銘々自分の席に着くと、あとは発車を待つ電車が時々発するコンプレッサーの音がするばかりだ。
私は一度席に着いたものの、まだしばらく発車する気配がなさそうなので立ち上がってドアへと進み、すぐ外のホームにいる彼に尋ねてみた。
「こないだの電車と違うんですね。」
「あ、ええ、あれは平日の限られた時間帯しか走らさないんですよ。」
彼の話では、あの電車は開通当初からの生き残りで、なかば動態保存を目的として動かされている物だそうだ。もう大分老朽化しているし冷房も無いので、季節・期間を限定した運行になっているのだという事を教えてくれた。
「なるほど…。ところでこの駅、何か工事が始まるんですか?」
「ご存知でしたか。そうか、ネットの情報ですね。最近は、うちらより詳しい専門のサイトがあるからなぁ。」
「いや、そういうわけでも…」
「あのベンチからの眺めも、もうすぐ見納めですよ。」
そこまで話した時に発車を知らせるメロディがホームに流れ出し、彼は仕事の顔に戻ってマイクを握る。手馴れたしゃべりでアナウンスをする彼。私がドア内側へ一歩退くとほぼ同時に、両開きのドアが戸袋から出て来て駅員の姿をホームに残し、真ん中でピタリと閉じた。
「プシュー」と響くブレーキ開放音、するすると加速して行く電車。丸屋根の下を出ると雨上がりの日差しが強烈で、外の景色が薄く白っぽく見える。右手にはビルと高架線、左手には先ほどの喫茶店らしき建物が窓の外を後方へと流れて行く。私は座席に戻ったが、不思議な事にそこから先の記憶が無いのだ。ポイントをガタガタと音を立てて通過したところまでは、体の揺れで憶えている。その後急に外の景色がホワイトアウトしたような感じになって、何だか夢の世界へと落ちて行くみたいな心持ちがした。
:
気がつくと私は再び水神森駅の駅頭に立ち、駅舎を見上げて風に吹かれていた。もう夕日はビルの向こうに落ちてしまったが空にはまだ残照が残っており、茜色の空に薄紫の雲を鮮やかに浮かび上がらせている。休みの日の夕方、JR駅へと出入りする人たちは平日の通勤客に比べて穏やかな動きをしており、その流れに逆らう形で突っ立っている人間を誰も咎めようとはしなかった。
私は電車の中で眠ってしまったんだろうか。そのまま終点まで往復した結果、ここへ戻って来たのだろうか? 曖昧な記憶の中に
大神宮へお参りした自分がいて、その建物を仰ぎ見たような気もする。しかしそれが実景だったのか、あるいは単にカードの写真から連想した幻覚なのか、未だに判然しないでいる。「記録を見ればいいんだ。」そう思ってポケットのカードを探ったが見付からない。電車にすら私はまだ乗っていないというのか?
JRの駅から帰りの快速に乗った。ドア脇に立ち、発車してホームを離れると同時に、顔の左右を両手で覆ってガラスに押し付け黒い外
の風景を凝視する。高架下に薄暗い蛍光灯を灯す小さなホームと、そこから延びて離れて行くカーブした線路の光が見えたが、次の瞬間目の前にはすぐ脇に建つビルが割って入り、その煌々とした照明に眩惑された。そしてそれが通り過ぎた後は、もう線路も何も見えなくなっていたのである。