それから何ヶ月かはそこへ赴く機会がなかったが、その間にもネットで情報は徐々に収集していた。やはりあのマスターの話してくれた通り、元々この線は東葛電車(正式名は東葛電気軌道)と言い、水神橋駅から数キロ離れた先にある大神宮への参拝客輸送を目的に開設されたものだそうだ。また、当初は沿線にある醤油工場などの貨物輸送も一手に担っていたが、国鉄との軌間が異なっていた為に荷物の積み替えを行なう必要があった事と、その後モータリゼーションが進んだ為もあり、順次トラック輸送に切り替えられてしまったという。
参拝客の方も初詣や縁日等には多少混雑する事もあるが、年間を通じての輸送人員は期待された程でもなく、経営は苦しい状態が続いた。しかし神宮の少し奥手に準大手私鉄の新線が都心へ向かって延びてきたために、そこと接続を果たしてJRとの間を連絡する支線となり、傘下に入って生き残りを図ったというわけだ。ちなみに同社バス部門も同時に吸収されたが、その後該当路線だけ分社化され、東葛電車の末裔となって現存する。
駅の工事に関しても、ネット上で一部その計画を目にする事が出来た。それによると、JR駅前の再開発と水神森駅及び付近の地下複線化を行なう大規模な工事で、行く行くは都心から延伸して来る地下鉄との相互乗り入れも計画されているらしい。また、水神森駅を出てすぐの所で現在一部に大通り上を走る路面併用区間があるので、合わせてそれも解消するのが狙いとの事だった。
それらの情報を几帳面に調べてネット上に載せているサイトがあり、ある日私はその開設者にメールを送ってみた。東葛電車についていくつか疑問点があったので質問したのだが、彼はその一つ一つについて丁寧に解説してくれ、おまけに「長いことサイトをやってるがこれだけ興味を持って質問して来た人は珍しい」という事ですっかり意気投合。即席の二人オフ会を行なう所にまで、話はトントン拍子で進んでしまった。
約束の日、私は早起きをして自転車でこの街へとやって来た。歳とともに少々気になる体型になって来た事もあり、あるサイクリングイベントに参加したのがきっかけで、最近は自転車で遠出するのが楽しくてしょうがないのだ。高架下に駐輪場を見つけてそこへ愛車
を置いた後、JR駅前の交番脇で少々不安ながら待っていた。
「えぇっと、東葛電車の方...」遠慮気味に声をかけて来た彼は、私と同世代の人のようだった。「あ、そうです。どうも。」会話が微妙なのは、お互いにハンドル名しか知らない者同士のせいだ。目印としてそれを書いて胸に付けていた名札は、恥ずかしいからすぐにポケットに仕舞った。彼は小さい頃からこの近所に住んでいるそうで、東葛電車もずっと見続けて来ている。そのぶん知っているし愛着があるから、あれだけの情報を集めて公開する事が出来たのだろう。
まずは、地下駅化の着工も近づいている水神森駅の構内や周辺で、しばらく写真を撮った。この日は売店のおばさんもいて私を見つ
けると声をかけてくれたが、相方の彼とも顔見知りのようだった。二人で牛乳を注文して一気に飲み干すと、おばさんを交えた三人の
笑い声が丸い屋根の下に響いた。運よくあの旧型車もやって来たのでカメラに収める事が出来たが、きっと彼は運行予定を調べた上で、ちょうどいい時間帯に待ち合わせを設定してくれたのだろう。
「面白い物件があるんで、ちょっと見に行きませんか?」
彼にそう言われて、もちろん断る理由など何もない。ついて行くと、JR駅のコンコースへと入って行く。え、JR?と思ったが、改札へは
向かわずにそのまま高架下のショッピングセンターを素通りし、裏口を横手へと抜け出た。「どうです、いい眺めでしょう。」目の前はちょうど水神森駅のホーム裏手、左側には青空を背にしてマルーン色をした本屋のドームがそびえていた。
今朝は駐輪場からまっすぐに通路を抜けてしまったので、この小広場に出たのは初めてだ。こちら側からの眺めは少々新鮮だったので、「ええ、いいですね。」と屋根を見上げていると、「いゃ、こっちですよ。」
笑いながら彼が指差すのは、駅と高架線に挟まれた細い空地である。よく見ると、草むらの下で泥にまみれて分かりづらいが、錆付いた線路がそこに横たわっていた。「こんな所に何で線路が!?」「昔、貨物ホームだった場所なんですよ、ここ。」
貨物輸送を行なっていた当時の遺構が、いまだに残っていたのか。工事が始まったらなくなってしまうだろうと彼は残念そうに言ったが、この辺の写真は近くまとめてサイトで公開する予定だと言う。「こっちにもいいものがあります。」変電所のような施設の前を過ぎ、高架下の駐車場とその脇のビルに挟まれた細い路地を抜けて、車道に突き当たる。
「あれ、何だと思います。」道路の向こう側は、明るい日差しを浴びた小さな草地だ。良く見るとその中央部は、雑草に覆われつつも少々台形状にこんもりとしている。「ひょっとして...」「そう」
「築堤!」男二人で顔を見合わせ、思わず声高に叫んでしまった。道で話をしていた二人連れの高校生が、訝しげにチラっとこちらへ視線を投げかける。
「どうもここから向こうへも線路が延びてたらしいんですよ。」
「でもどうして築堤なんだろう?」
「この先でJRをオーバークロスして、反対側へまわってたみたいで。」
上から見ると良くわかるからという事で、彼に連れられて目の前のビル裏口へとまわる。重いドアを押して中に入ると、管理人室らしき所に老人が一人で番をしていた。
「やぁ、シンちゃん」「おじさん、屋上借りるよ。」カメラのシャッターを切るポーズをする彼。
「またかい。好きだねー。」「えへへへ」それで話はついたらしかった。
裏階段をずんずん登りながら彼は、あの人はこのビルのオーナーで、長屋住まいだった小さい頃からの顔なじみだと教えてくれた。私はおどおどしながら後ろからついて行く。最上階まで登って行くと、屋上へ出る手前の階段室に小さな祠があった。
「おゃ、これは...?」「あぁ、さっきのおじさんが町内の誰かから頼まれて、ここへ奉ったらしいんだけど、何でも由緒ある水神様なんだそうで...。」
屋上のドアを開けると空が大きく広がった。すぐ横にはJRの高架線が並んでおり、写真撮影には良さそうだ。その向こうには工場や住宅地の入り混じった街並み、そしてその屋根が果てるあたりにはうっすらと東京湾の水平線が見えていた。「まずはこちら。」彼に従い、親父さんが干したらしい洗濯物の間をすり抜けて行き、裏手のフェンス越しに下を覗く。「おー、線路が良く見える」「でしょ?」
「でぇ、あれがこう通ってこっちへと...」彼は、人差し指で空中に線を描きながら逆側の突端へ歩いて行く。「...つながってたらしい。」
なるほど、直下に見える築堤は線路の延長上だ。誰かが焚き火でもしたのか、空き地の片隅にあるドラム缶から薄い煙がたなびいている。「あれ?」その煙を目で追っていた私は、背後の街並みを見て思わず鳥肌がたった。
「あれは...」「そう。見えるでしょ。」彼が嬉しそうに呟く。
築堤はほんの短い距離で切れているが、その後ろに続く家々の屋根が周囲と明らかに際立って違い、怪しいカーブを描きつつ彼方へと連なっていたのだ。
「一旦国鉄の線路から離れて勾配で高さをかせいだ後、乗り越えてたようで」「JRの高架になる前の話ですね」「そうそう。」タイミング良く、高架上を通勤電車が通過して行った。この線には、山手線から転出して来た車両がほぼそのままの姿で走っているので、写真を撮りに来るファンも多いと聞く。電車が通過してしまい、走行音が遠ざかって行くにつれて、何か別な音がしているのに気が付く。
「あ、これか。ちょっと失礼。」彼はポケットからケータイを取り出すと、電話に出た。「ハイ。...えぇ。...は?...はぁ、でも俺、今日非番なん...」
そこで電話は相手方から一方的に切られてしまったようだ。彼はしばし考え込んでから、「申し訳ない。なんか呼び出し食らっちゃたもんで、今日はここまでという事で。」「あ、そうっすか。残念だけど、楽しかったですよ。」「ほんと、お茶でもしながらゆっくりと話したかったのにね、近くにコーヒーの美味い店もあるし。」「もしかしてあそこ...?」
私が指差す先を目で追うと、彼は一瞬の間をおいた後、顔をほころばせてコックリと頷いた。どうやら当たりのようだ。
「じゃ、ここで。」「あ、また。」ビルの出口で二人は別れた。「そうだ、これを忘れてた。」去り際に彼は、一枚の地図を渡してくれた。住宅地の上に、廃線跡を示すオレンジ色のマーカーがどこまでも引かれている地図だった。