2.寝台特急「彗星」(2) 3.高千穂鉄道 4.宮崎交通バス 5.南阿蘇鉄道 6.熊本での出来事編(1) |
8.肥薩線(1) 9.肥薩線(2) 10.日南・志布志編 11.志布志〜大阪編 |
何もない志布志駅前からヤード跡の草むらと住宅地を抜けると、だだっ広い埋立地に出た。かなたの岸壁に接岸しているのは「さんふらわあ おおさか」で、以前は「さんふらわあ5」と名乗っていた。船体の中央に煙突が1本有る「さんふらわあ」のオリジナルな船型をとどめた、初期のグループに属するもの(のはず)だ。
志布志航路と「さんふらわあ」の名前には思い入れがあって、高校の修学旅行で九州を訪れた帰路、鹿児島・谷山港から大阪南港へ向けて乗船したのは、2本煙突の「さんふらわあ11」だった。意中の彼女に思いきって声をかけて、開聞岳のシルエットを眺めながらデッキを散歩などしたものだ。途中寄港した志布志の岸壁には、「ようこそ志布志へおいで下さいました」という意味の鹿児島弁の横断幕が掲げられていたのを思い出す。あれから10数年を経て再びここを訪れたわけだが、おぼろげな記憶では当時の面影を偲ぶよすがもない。
岸壁で巨大な船体を見上げてから乗船手続きを済ませ、売店でおみやげを買う。そもそもJRの駅前には土産物屋はおろか、フェリー乗り場を示す案内板さえなかった。乗船はしたが20時の出港まで1時間以上あるので、その間にレストランで夕食を済ませ、風呂でくつろぐ。
予約した部屋の等級は「G寝台A」で、船体中央寄りに位置した、窓のない4人部屋である。これが「G寝台S」だと舷側寄りになるので、船室の構造は同じだが窓がつく。乗り物に窓がなければ、できの悪いビジネスホテルも同然で、私は列車でも飛行機でも窓側が好きなのだが、予算を切り詰めたので仕方がない。
2組の2段ベッドの上段はいずれも空席で、相客は向かいの下段のオッサン一人である。50がらみのこの人、派手なストライプのジャケットにサンダル履き、角刈り頭に黒ブチメガネで、金ピカの派手な指輪をいくつもはめているという、何やらヤクザな風体である。このオッサンと一晩カンヅメかとややビビっていると、目線が合ってしまった。
「こんばんは、よろしくお願いしますね。さっきからちょこちょこ部屋を出入りしてたんですが、今までお会いしませんでしたなあ」と話しかけてきたのはオッサンの方だ。とってもいい人、なのであった。
「沖縄以外は日本中あちこち行きましてね、今日はこれから岐阜まで行きます。フェリーはゆっくりできるからいいですわ。あなた、『ダイヤモンドフェリー』ご存知? あれはなかなか設備が良くて・・・」と饒舌である。こちらも船旅の思い出などを話して盛り上がる。
こうして無事に「船室デビュー」を果たすと、あとはすることがない。夜食にシャケ弁当を買ってベッドで食べる。向かいのオッサンは横になって雑誌を読んでいる。11時、就寝。早起きのせいで、日南線の中でも眠かった。
一気に熟睡したつもりだったが、気がつくとまだ3時である。デッキで遠い海岸の明かりを眺めてからもう一度寝る。次に目覚めると6時前。再びデッキに行く。さすがにもう明るく、目の前は室戸岬である。もうそんなところまで帰ってきてしまったのか、とややがっかりする。
朝風呂でヒゲを剃る。格別揺れている訳ではないが、湯船の水面はピッチングとローリングを繰り返し、5cmほども上下するので造波プールのようだ。6時20分に入って7時に出た。ぬるくなっていたが居心地は良かった。
8時のレストランオープンと同時に、ホテルのバイキング風の朝食を済ませ、船室に戻るとオッサンが起きていた。ここで再び話しこむ。そして、意外なことがわかった。
「私ね、『トンネル屋』なんですよ。『発破屋』ともいいますがね」
鹿島建設の下請けで、日本中の現場を回っているという。
「16歳の時からもう30何年、この仕事やってます。今じゃ現場の仕切りをまかされてますから、ダイナマイトの管理も私のハンコひとつですよ。いろんな所に行きましたなあ・・・。 中央道の恵那山トンネル(岐阜)、海南湯浅道路(和歌山)、新生駒トンネル(奈良)、関門国道トンネル・・・。 天ヶ瀬ダムの時は、落盤で腰まで埋まっちゃって、半日閉じ込められたりしましたね」
「今じゃ現場の環境も良くなってます。大きな工事も機械化が進んでるから、人手は30人とか、せいぜい100人くらいです。週休2日制で、ひと月に40万から50万、大きい仕事なら100万くらいの実入りがあるけど、山奥の現場じゃすることもないから車で町へ出てね、盛り場でパーッと使っちゃう人もいますよ。残ってる連中は、酒を飲む連中、飲まない連中、ギャンブルをやる連中、なんて感じでめいめいかたまって過ごしてますね。宿舎も2人部屋になってるんで、相部屋になった人とは一晩でビール1ケース空けたりして、仲良くやるんです」
初対面の私に愛想の良い理由が、これでわかった。同室の人間とのコミュニティを大切にする、というやり方で、長年の現場生活を渡り歩いてきた訳だ。
これから朝飯なんで一緒にコーヒーでもどうですか、と誘われてレストランに行く。ちょうど朝っぱらからショータイムで、東南アジア系の若い男女が踊っている。ジャズダンス風あり、バンブーダンスあり、タイの民族舞踊っぽいのもあって、なかなか楽しめる。さすがはプロで、日本人から見ても美男美女ばかりだが、このダンサー達、どんな経緯で日本でこういうお仕事をしているのか、と人生の機微を感じる。
オッサンは、「夕べは1000円払ってショーを見たけど、なかなか良かったよ。特にフラダンスなんか。この人達ね、本当にインドから来たそうですよ。大したもんだ」と真顔で感心し、1曲終わるごとに真剣に拍手をしている。インドだと言われればそんな気もするが、インドネシアの間違いではないかとも思う。時刻は9時半を回り、船は友ヶ島を右に見て紀淡海峡にさしかかっている。いよいよ大阪湾である。
食事の後デッキへ出て、一晩のお礼にと大阪湾を案内する。右手に関西空港、泉北のコンビナートが見えてくる。左手は長い淡路島の島影である。相方は「あれが淡路島でしたか。いやー、勘違いしとった。尼崎かどこかのあたりと思うとった」といいながらビデオカメラを回している。一通り撮影を終えて彼が船室に下りても、私はそのままデッキにとどまり、ずっと大阪の街を眺めていた。私にとっての帰着点も、オッサンには「発破屋稼業の旅の空」なのだ。
大阪南港への入港が近づいた。階下へ降りて、洗面所でヒゲを剃っていたオッサンに礼を言った。仕事の安全を祈りながら、心を込めて。
《あとがき》
私の手元には、この旅行記を書いたメモと共に、1枚の切符が残りました。なぜ志布志で切符が回収されなかったのか、実はよく憶えていません。志布志が無人駅だったからでしょうか。途中下車した南宮崎で、志布志までの乗車券を買いなおし、それで下車したのだったかも知れません。思い出深い、出会いの染み込んだ切符です。1年間にわたるご愛読、大変有難うございました。
《おことわり》添付した切符の写真における「見本」の文字は、画像処理時に筆者で加えたものです。(使用済みとはいえ、有価証券ですので、念の為。)