田駄雄作の鉄道四方山話

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〜 はじめに 〜
 このページでは、田駄雄作さんの鉄道にまつわる回想を中心に、不定期連続で語って頂きます。題して「田駄雄作の鉄道四方山話」。 釣掛電車の話、昔の臨時列車、北海道の私鉄蒸気機関車、スペインの運炭鉄道、中国の森林鉄道、常磐線蒸気機関車最後の日、等など、順次公開しますのでお楽しみに! 田駄さんへの感想や励ましのお便りもお待ちしています。

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第10話:鉄ちゃんの学旅 Image

 中学や高校時代は時間的、経済的条件に加え学校や家庭からの制約もあり、気ままに旅行をしたり遊んだりできないのでなかなか鉄道趣味の満足心を充たすことができない。また趣味自体が固定化されている訳でもないので、新しいジャンルのものに出会ってこの道を去る者も多く、また色々なものに興味があっても時間的、経済的理由から諦めざるを得ない場合もままある。趣味論についてはまた項を改めるが、そんな中でおおっぴらに旅行できる機会に学校行事である旅行、修学旅行(好きな名称ではないが)や遠足、臨海、林間学校などの学旅があった。バスを使うことも多かったが、長距離となるとやはり主役は鉄道となる。もちろん団体行動であるから自由に旅と鉄道を楽しむことは難しいが、そこはそれ、好きな鉄道だからうまくやって結構楽しんだものだ。私の出身校は中高一環の私立で、決してお坊ちゃん学校でもなく、問題学校でもなく校風も良かったので結構自由に行動出来たのも確かだった。そんな中で印象に残っている旅の話3点について想い出すままに。

1.昭和39年夏。林間学校

 中学2年の林間学校、行く先は白馬。大糸線の信濃四谷駅(現白馬駅)までの鉄道の旅の始発は新宿駅。6時台発の鈍行長野行きだった。夏の登山シーズンだけに座席確保のため、新宿乗車となったようだ。(学校は国立にある)
 この時間に集合できない者は、立川、八王子乗車。それにも間に合わない者は後続の急行乗車となっていた。松本まで8時間位の所要時間だったと思うが、オハ35中心の客車列車で機関車はEF13。いつも通学途中に眺めている列車だけど乗るのは初めてだから興奮する。
 途中藤野駅(だったと思う)でD51形蒸機(八王子区のD5191ナメクジ)の列車とすれ違うが、これ未だに謎なのである。中央線のこの区間は完全電化区間で、蒸機の運転は電化後は一切無かったはずなのだから。ところが最近一つの解釈を示された。当時中央線は複線化、別線新線化などの改良工事が行われていた時期なのでその試運転や路盤堅め運転に八王子区の蒸機が使われたのではないか。時間も朝だったから、夜間の試運転の返却回送時だったのでは?ともっともなものである。
「つぎのトンネルを出るとすぐ右に、猿橋が見えるぞー!」と旅好きの教師の声で皆が注目する。確かに真っ赤な橋が見えた。実にこの区間が数ヶ月後に新線に切り替えられているから、件のD51はこの区間新線のためと思えば辻褄が合う。
 甲府からは未電化だったので蒸機を期待したが、茶色と言うよりは真っ黒のDF50重連に替わり、普通列車なので何カ所もスイッチバックを重ねる。しばらく記憶が飛んで、もう間もなく松本というところで窓際にいたやつが「蒸機が牽いてる。」と言い出す。窓からのぞくとDF50重連の前にD51が連結された三重連だった。塩尻で回送機を連結したようだ。
 松本からの大糸線は17m国電ばかり。なんだいつも通学で乗ってる西武と一緒だ!南武線や青梅線で通ってるやつなんか「全く同じ!」然り。

 一週間後、帰りは松本から臨時夜行準急の乗車ということで、どうせ寄せ集め客車だろうなんてタカをくくっていた。事実、同じ列車で帰った前の班の友人からの情報ではオンボロ客車ということだった。後で調べたらこの臨時準急「白樺」は一日おきに東京と長野で受け持っていて、長野局持ちはオハ61なんかも混ざった寄せ集め編成だったらしい。バックで入線して来た編成の先頭はスロ53、続くのはなんとブルーの客車だ。(まだ旧客のブルー化前)しかも狭窓が続く、東京局担当の編成は品川のスハ44系だった。数人の鉄ちゃんがどよめきたった。「これ特急つばめの客車だぜ!」「へぇー!」当時はこれで全員に通じた。まだ客車「つばめ」の廃止から数年しか経過していない。
甲府まではD51牽引。さぞやゴージャスな旅と思いがちだが最悪。一般客と混乗になってしまったので座席の回転禁止。リクライニングもしない。前のテーブルを倒し、そこに伏せて寝るしかない。状態の良い線路では最高の乗り心地のTR47形台車も、低速で整備の悪いレールでは重い台車が災いして継ぎ目を一つ一つ拾うから、ゴンゴンと振動が突き上げる。非冷房なのにD51の煙が入るので窓が開けられない。と最悪だったけれどスハ44系は以後乗っていないし、今こんな話が書けるくらい鉄ちゃんにとっては良い想い出、体験だったということ。

2.昭和40秋。東北修学旅行

 普通は中学で関西、高校で九州とか北海道という学校が多かったようだが、歴史的重みのある関西はぜひ教育や情緒的に成長した高校生で、という一貫教育ならではの方針で中学は東北となったようだ。

1日目

上野〜(急行第1いわて)〜仙台→松島泊

 盛岡電化の一週間後ということで、453系電車の「いわて」も新顔列車。私も東北本線の旅は初めてだったので(常磐線経由は乗ったことがある)興味津々。交直流急行電車の快走に興奮した。途中やはり新顔の特急「やまびこ」とのすれ違いを窓から大きく顔を出して撮影していたらその後ろから撮ったやつがいて、後日教師から呼び出しを食らい証拠写真を突きつけられた。弁解の余地無し。
 当時の東北本線南部は旅客、貨物ともED71牽引列車が殆どで、一部にED75が進出し始めたばかりという状況だったが、貨物列車の多いことはビックリで10分毎くらいにすれ違う。小山のC50、白河のC12、郡山のD51、D60など蒸機も数多く車窓をよぎった。仙台までの5時間はあっという間。
 バスで松島に向かったが途中立ち寄った塩竃港の引き込み線でD51452を発見、この機関車には後に青森機関区、大阪の竜華機関区で再会することになり、さらに青梅鉄道公園で保存されるとは当時は知るよしもない。

2日目

松島→平泉→繋温泉泊

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中尊寺駐車場から D51+D62重連貨物

 全部バスの行程だったが、平泉中尊寺の駐車場が東北本線の線路際。貨物列車がバンバン通過して行くが仙台〜盛岡は一週間前に電化されたはずなのに機関車は全部蒸機!それもD51だけでなくD62の姿も。中尊寺の展望台からは蛇行する衣川と東北本線の大パノラマ。300mm位のレンズで狙えばとも思うが無い物ねだりということか。バスが出発直前やって来たのはD51+D62重連、かろうじて窓から撮る。その前に線路際で撮ったはずのD62の写真はなぜか見つからず。

3日目

繋温泉→十和田湖→蔦温泉泊

 本日もバスだが途中休憩で立ち寄った竜ケ森ではちょうど86の旅客列車の出発に立ちあう。

4日目

蔦温泉→青森→弘前泊

 バスが途中で故障し、代わりにやって来たのがふそうボンネットの路線バス。これはこれで楽しかった。弘前の自由行動で黒石の「リンゴ試験場」へ。行きはバスだったが帰りは弘南鉄道に乗車。もと西武の151型に久々の再会。門限を2時間も過ぎて旅館に戻ったが、我々のグループは優秀組(私以外は)だったのでお咎め無し。この時の「リンゴ試験場」レポートはなんか賞を貰った記憶がある。

5日目

弘前〜(急行あけぼの・しらゆき)〜秋田→男鹿半島→秋田〜(急行男鹿)〜翌朝上野

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秋田駅前にて 秋田市電34号

 気動車時代のキハ58「あけぼの」に乗車、シルバーの円形ヘッドマークが印象的。秋田駅前では旧都電(?)の秋田市電ポールカーを撮影できた。
 急行「男鹿」は山形まではDF50が牽引、途中D51の後補機が連結されていたような。夜が明けて最後尾の貫通路から、すれ違う特急、急行などを見ながらこの旅は終了。

3.昭和42年秋。関西修学旅行

 6年一環教育とは言え、高校から編入してくる連中も2クラスあり、その多くは中学時代に関西を経験している。彼らには一部別コースを用意するという気の配りようである。しかし全部で8クラス、400人の団体さんだからその移動は大がかりで関係者の気苦労は今思えば察するに余りある。

1日目

 東京〜(新幹線こだま)〜京都→吉野山泊

 多くの者は新幹線初体験、私も関西まで乗車するのは初めてだった。途中は米原のD50や気動車などをスナップしているが記憶は定かでないが、米原については最終日の密謀計画があったため感情を表に出さないように気苦労した覚えがある。
 バスで吉野に向かう途中西ノ京で薬師寺を訪れたが、高田好胤住職のお説教の最中、すぐ後ろを走る近鉄橿原線がどうにも気になりちょっとスナップ。

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薬師寺裏 近鉄橿原線
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奈良機関区そろい踏み

2日目

吉野山→奈良泊

 昼間の記憶は殆ど無く、夜の自由行動で鉄仲間連れだって奈良機関区へ。まだ関西本線や周辺の支線が無煙化前でラウンドハウスにはD51、C57、C58、C11、C12、86などがズラッと並んでいた。三脚でバルブ撮影したが他の連中はどんな写真を撮ったんだろうか。駅の向こう側は自由行動禁止地区だったけれど機関区は駅の一部と勝手に解釈。

3〜5日目

奈良→京都(3泊)

 昼間は京都の名刹や琵琶湖方面を訪れ、それぞれ印象もあるのだがその順番などは思い出せない。やはり夜の想い出が残る。宿泊は京阪三条からほど近い修学旅行ではおなじみの「日昇別荘」。
 市電に乗って行ったのは「松本模型」。まだオヤジさんがご健在で、いろいろ楽しいお話を聞かせて頂き秘蔵の模型や写真、雑誌のバックナンバーなどを拝見して感激する。模型購入はちょっと高すぎて断念。「松本模型」には翌々日の夜も訪問。オヤジさんの鉄道、模型談義は果てしなく続いた。
 2日目の夜は松本模型のオヤジさんの薦めもあって梅小路機関区へ市電を乗り継いで行く。まだ現役の機関区だった頃でD51、C11などが盛んに出入りする。高架になる前の山陰本線やデルタを形成する貨物線も列車がひっきりなしに通過して行く。それにしても奈良もそうだが、夜間しかも高校生に付き添いも付けずによく見学撮影を許可してくれたものと思う。今だったら考えられないことで、佳き時代、お互いが信頼できる時代だったということか。帰りは門限まで時間が無くなりタクシーで戻ったような記憶がある。

6日目

京都〜(新幹線ひかり)〜東京

 京都を発つ午後2時頃までが自由行動。ただし同じクラス内のグループでの行動との制約付きだが。
 ここで他のクラスのやはり鉄と密謀して朝飯前に抜け出す。そして乗ったのは上りの新幹線!行き先は次駅米原。そう、下手したら停学ものの冒険をしでかしてD50の撮影に挑んだのだった。天気は雨だったが成果はバッチリ。
 米原から北陸本線の線路に沿って歩いて行ったが、次々とやって来る旅客、貨物はD50ばかり、関東では見られない「雷鳥」「しらさぎ」「白鳥」も捉える。坂田駅まで歩いたところでちょうどローカルの気動車が来たので田村まで一駅乗車。田村では琵琶湖畔の田圃の中で、やってくる列車を遠景で撮影した。重連が2本続けてきたり、珍しくD51もやって来た。撮影を堪能し帰路は田村からD50牽引列車に乗り、京都へ(米原からはEF58)。無事グループと合流して何気ない顔で「ひかり」で帰ってきた。途中名古屋では関西本線のC57列車と同時発車。もう暗かったのだが窓框に置いた友人のキャノネットを何気なしにバルブ露光したら、ぴったりシンクロしていて後日驚かされる。密謀はその後もバレずに無事学歴にキズがつかず卒業できた。

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北陸本線米原〜坂田 D50131貨物

2002/01/29


 過去記事はこちら
 1.釣掛電車の旅 | 2.昔の臨時列車その1 | 3.昔の臨時列車その2 | 4.10月1日ダイヤ改正 | 5.常磐線C62最後の日 
 6.南部汽車フェスタ2001  | 7.祖父の写真 | 8.テープカット | 9.St.Valentine | 10.鉄ちゃんの学旅

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