- 証言集
- 2005-09-30
谷津という場所は、想い出深い場所で記憶をたどる事は楽しみの一つなのですが,それと共にあの頃の時代がとても好きなのです。例えば、夏場であれば,蚊帳,蚊取り線香,ハエ取り紙,2B、めんこ紙芝居、等その言葉を思い出すだけで、当時の匂いまでよみがえってきます。
商店街から谷津遊園にかけての写真が掲載されていましたが、京葉道路のガードがありましたね、あの右側の店は、ポリゴン書店となっていますが、当時は、ポリゴン薬局でした。その反対左側を少し入った所に、銭湯がありました。子供は5円か10円で入れたと思いますが,その入り口にジュース販売機があって、白いボックスの上に火星人の頭のようなかたちのガラスが乗っていてその中にオレンジジュースが噴水のように吹き上がって、天上のガラスにあたってそのガラスの内側を伝わってまたノズルから吹き上がるような仕組みで、右脇にある紙こっぷを引き抜いてから、中央のプラスチックのふたを開けて、コップをセットしてから10円を入れると、ジュースが出てくる仕組みで、今のように全自動ではないので先にお金を入れると悲惨な結果になってしまう販売機でした。
谷津遊園駅も今のように、上が改札口にはなっていませんでした。商店街から千葉街道の横断歩道を渡ると正面に5段ぐらいの幅の広い石で出来た」階段があって左手に駅員のいる切符売り場がありました。改札で切符を切ってもらって左に上がると、上り線そのまま踏み切りを渡ると下り線、ご存知かと思いますが、下りホームの後ろは絶壁になっていて、もっとも子供の時ですからかなり高く見えたのですが、今見るとビルの4階ぐらいの高さですね。その絶壁の向こう側に行くためには、踏切を渡って右に階段がありました。高さは,今も昔もおなじですから、当時は結構急な階段だったと思います。足元を照らすために裸電球が頭上に下がっていたのを覚えています。登った所は、当時は谷津5丁目だったのですが、駅のすぐ上の場所は、避暑地としての別荘地だったそうで、今でも当時のお屋敷のような立派な門構えの家が残っています。
谷津干潟になっている所は、当時はまだ海で、昼過ぎまで潮が引いてずっと砂浜が続いて、潮干狩りが出来る場所でした。その頃は2時間も掘っているとバケツ2杯ぐらいすぐに取れるので、日曜日に商店街で売っているのを見て、信じられない想いと,買っている人をみてもっと信じられない想いがありました。潮が満ちてくると、今度ははぜ釣りで、今はすし屋で『ひも』と呼ばれているのは、当時では馬鹿貝と呼んでいて、はぜ釣りの時のえさにするぐらいでした。はぜは天ぷら、アサリは味噌汁で、ハマグリは焼き浜でしょうゆをたらしてよく食べました。但しあの谷津干潟になっている所は、東京湾のあらゆるごみが集まる所で、臭いも半端ではありませんでした。
その遠浅になった浜辺を伝って海上コースターの方へ行くと只で谷津遊園地に入れるのです。当時は、くいを打って鉄条網を張っていたのですが、そんなに厳重ではなかったので、楽に行き来できたのです。もっとも動物園以外はお金が掛かるので、子供たちにとって余りメリットは無く、せいぜい只で入った事を自慢するぐらいでした。
楽しみだったのは台風の時で、高波が堤防に当たって海水が僕たちの公務員住宅に流れ込んでくるのです。それでも床下浸水にもならず魚や昆布が打ち上げられる程度でした。それでも危険を回避するために、あの5丁目の丘の上にある母校谷津小学校の体育館に避難するのです。それが子供の私たちにとっては,とても楽しいイベントなのです。今でも台風ときくと、パブロフの犬のように条件反射でわくわくする想いがこみ上げてきます。災害に遭った方には申し訳ないのですが・・・・。
当時(昭和36年頃)あの海の沖の所に電車が走るようになるんだよ、と聞いたことがありました。それから30年ぐらいしてから今の京葉線が走りました。海側から見ると谷津遊園地は右側正面の団地の所(堤防のある)が公務員住宅でその後ろは今は住宅ですが、当時は住宅の裏側から京成電車までは畑と田んぼでした。畑は、地主を意識せず住人が、今で言う家庭菜園を各自耕していました。うちでも、ナス,きゅうり,トマト、シソなどを作って糠漬けにしていました。その畑の先が1メートルほど段差になっていて田んぼになっていました。用水路も幅2メートルぐらいあって、筏を浮かべてよく遊びました。田んぼには、めだか、くちぼそ、ザリガニ、タニシ、おたまじゃくしなどが生息していました。
しかし良く考えてみると、もっと以前には、京成電車の所までは海だったそうで、私たちの住宅は勿論、谷津遊園地も埋立地だったのですね。ですから家の庭を掘り返すと貝殻のような細かい殻が沢山出てきました。当時は田んぼでは蛍が飛んでいましたが、パラチオンと言う駆除剤を撒くようになってからは、蛍はいなくなってしまいました。
随分谷津遊園とは、離れてしまいましたが、あの一体が自分の環境でした。またこの様に文面に向かい合う事で様々な記憶が蘇って来ます。もっと記憶を掘り下げて、思い出しましたら,随時メールさせて頂きます。