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二俣尾 レポート 07

Apr 28, 2007 by mitsuda

2007/4/28 午前中の快晴から一転、午後は今にも降り出しそうな曇天となった土曜日の午後、念願の二俣尾探索に出かけました。 すでにGWも始まり、渋滞している青梅街道を抜け、二俣尾駅奥多摩方にあるアンダーパスをくぐり、二又を左に。 道の終点には、当時の記憶にある墓があり、少し広くなっているので、ダッシュボードに携帯電話番号のメモを置き、しばらく駐車させてもらうことにします。 こうした廃線探索は雑草がかれた冬場のほうが利点も多いですが、色々都合がつかずGWまでのびのびに。前回の経験を活用すべく、足はゴム長、手には鎌をもって入山(?)準備をします。 まずは奥にある「ビン」へとすすみます。

ところが、様子が前回(20年位前)来たときとかなり異なります。 荒廃する一方を予想し、重装備で来たわけですが、なんと道はトレッキングコースとして整備されており、足元の悪いところには足場も組んであります。そして雷電山へと続く道には写真1049のような案内板まであります。 この日はハイカーにはお会いしませんでしたが、山菜取りに山に入って行くグループを見かけました。

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No.1049

さて、こちらは山菜などには目もくれず、遺構探しです。 幸い現存するときに行っているので、それはすぐに見つかりました。 まずはビンの足場です(写真1047=以下番号のみ)。 木造建造物は完全に倒壊した状態で、何がなんだか分かりません。 しかし、かつて使っていた橋のためのレールやコンクリート台は残っています。

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No.1047

さて、ビン跡から件の整備された歩道を駅のほうに戻り、急ながらも人が歩けるようになった斜面を下ると1059.1076のガーターに出ます。写真の上がポイントを経由して二俣尾駅方、手前がホッパーです。

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No.1059
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No.1076

1060 渋谷さんのレポート7の位置と思われるところです。まだ架線が残っています。このときはトロリー線だけしか使用しない直接吊架式かと思っていたので、よく見ませんでしたが、かえって渋谷さんのレポートを読み返すと、カテナリ方式のようですね。残念ながら残っているのがどちらか分かりません。

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No.1060

そこから奥にすすもうとすると写真1061のような立ち入り禁止の看板があります。 危険だから立ち入り禁止かと思いきや、「ほたるのあかちゃん」(ヤゴ)がいるから、踏み入るなとのこと。歩道もそうですが、ホタルといい、ずいぶんと人が入っているようです。写真の手前にミドリに伸びる直線がコケで覆われたレールです。 ヤゴは水中で暮らす昆虫なので、脇の水のないところを渡り奥にすすみます。 落石などでかなり形は変わっていますが、線路跡は半分埋まりながらホッパーへとつながっています。

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No.1061

ついにホッパー跡(1068)に着きました。 完全な残骸となりながらも、碍子や丸太は残り、往時が偲ばれます。 足元が悪く、これ以上は奥へ進めないので、引き返すことにします。 先ほど来たガーターは枕木は全て崩れ落ち、渡る事は危険なので、いったん下りて来た斜面に戻って、駅側にすすみます。 そこには完全な形で、ダルマ転轍機とポイントが残っていました。 この先は線路は90度向きを変え青梅線に沿って、二俣尾の駅に入ってゆきます。 我々は、この先は資材置き場(ゴミ捨て場?)となってるので、元来た斜面を登り、車へと戻ります。 近くには民家もあり、当時のことや整備された状況などを取材したかったのですが、土曜午後でどちらもお留守で、それはかないませんでした。

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No.1068

しかし、今回は予想よりはるかに、楽に遺構検証が出来ました。 特に転轍機は、今回が最もきれい見えた瞬間であり、廃線跡というより、保存施設ではないかと見紛う程です。 最初に来た1972〜74年頃は、霜柱の経つ冬だったにも関わらず、レールは枯れた雑草で埋もれ、転轍機につたが絡まり、とても原型を確認する状態ではありませんでした。 それが、姿を現し、しかも回りは明らかにひとの手が入った状態になっています。 前回は誰にも見向きもされないまま朽ち果ててゆく、巨大ホッパーやビンを見たときは、このままこの場所自体が、時間から取り残されたようになって行くのだと思ったものですが、今回の訪問では 整備された歩道は勿論、線路を横切るように作られた土盛りなど、人々の生活がそこにあり、「人の臭い」のする場所へと変わっていました。

整備されたと言っても山の中なので、単独行動は慎みたいものですが、ゴム長だけあれば、ホッパーの遺構やレールで往時を偲ぶことは十分に可能です。