その鉄道は確かに存在した…
■2007/11

~ 軌道掲載地図、発見さる ~

中島飛行機武蔵製作所と田無町の中島航空金属の間を結んだ簡易鉄道について大分以前に記事にした([簡易鉄道トップ]参照の事)が、それは当時の保谷市有志の方々が行なった貴重な聞き取り調査により浮き彫りとなった推定路線経路を元としたものだった。 というのは、なにぶん戦後の混乱期の事でその軌道がすぐに撤去されてしまった為もあり、この鉄道の掲載されている地図が存在しなかったからに他ならない。

ところが、最近読者の方からその地図を見つけたとの情報を頂き非常に驚いたのだが、教えてもらったサイトへ行ってみると、果たして確かに掲載地図の存在している事がわかった。 それが下記のページである。

http://www.lib.utexas.edu/maps/japan.html

米オースティンのテキサス大学にある Perry-Castañeda 図書館のサイトだが、この中に旧米国陸軍地図局が発行した地図が公開されている。 下の方の[Historical Maps]にある[Japan City Plans]内に 1/12,500 の詳細な地図が色々と揃っているが、そのうちの[Tanashi]が問題の図幅である。 一応パブリックドメインであり自由に使用して良いとの記載があった(私の英語読解が間違ってなければ)ので、ありがたく以下に一部を抜粋し、以前の推定ルートと比較してみよう。

Map
University of Texas Libraries
Map
聞き取り調査による推定ルート

上図で、右下が中島飛行機武蔵製作所、左上が中島航空金属田無製造所、中央を東西に横切っているのが現在の西武新宿線だ。 簡易鉄道がそれらの間を屈曲しながら結んでいるのがはっきりと記載されており、途中には交換所らしき施設も2箇所程みえる。 表示の関係でかなり縮小してしまったが、原図はもっと大きくて鮮明なのでぜひご覧頂きたい(画像が大きいので環境によっては少々重いかも知れないが)。 本稿に関連する武蔵境から中島飛行機や浄水場への引込線、及び西武池袋線から伸びていた中島航空金属専用線も観察する事が出来る。 また直接関係ないが、下河原線や西武のデルタ地帯の往時の状況も良く分かって興味深い。

しかしこれを見て驚くのは、いかに沿線住民の方々の記憶が正確だったかという事で、推定されたものと地図記載の経路は全線に渡ってほぼ一致する。 それもそのはずで、自分の土地に無理やり線路を敷かれてしまった住民にしてみれば、忘れようにも忘れられない記憶だったのかも知れない。 唯一、微妙にずれの生じているのは中島航空金属側の一部で、「今の田無二中そばのバス通りから曲がった細い道が線路跡」という証言により湾曲道路の一部が線路跡と理解されていたが、地図によるとその湾曲部を貫く形で線路が敷かれている。

どちらが正解なのかは分からないが、地図の方は米軍の撮影した空中写真が元となっているそうなので、そちらがより正確なのかも知れない。 実際にこの軌道が写っている1945年4月2日撮影の空中写真も入手可能なようだが、国土地理院の閲覧サイトでは見つける事が出来なかった。 別途購入すれば、見る事は出来るのだろうか。 しかし、終戦時までにこれだけの情報を持っていたアメリカは、改めてすごい国だと思う。

参考:
  • 地図と鉄道のブログ - Perry-Castañeda図書館の地図コレクションが紹介されている。読者の方が、今回の地図を発見するきっかけとなった。
  • 「戦争の記憶を武蔵野にたずねて」 ぶんしん出版 - 米軍空中写真(1945/4/2撮影)による同簡易鉄道の考察記事がある書籍。