その鉄道は確かに存在した…
■1999/10

~ 小ガードは何を語る ~

Image

飛行機エンジンの製造工場として、東洋一の規模を誇った中島飛行機武蔵製作所。その中島飛行機と、田無町にあったエンジンテスト工場(中島航空金属)の間を結び、製造されたエンジンを運ぶ目的で敷設された鉄道が、ごく短期間ではあったが存在した。それがこの簡易鉄道だ。

そもそも事の発端は…

この鉄道の存在が広く知られる様になった発端は、保谷市の公民館で出している「ほうや公民館だより」編集会議での事だそうだ。ある委員の方がふと、西武新宿線の小さなガードの存在に疑問を投げかけた。そのすぐ脇には青梅街道の大ガードがあるのに、何故ここに陸橋を作る必要があったのか... とても不自然に見えるというわけだ。

それに対し他のメンバーから、昔鉄道が通っていたという噂を誰々から聞いた事があるという話が出てきて、じゃぁみんなで聞き取り調査をしようじゃないかという事になった。実際に聞き取りを行ってみると果たしてそれは事実で、そこから南北へと聞き取りの範囲を広げて行った結果、この 2ヶ所の工場間を結んでいた鉄道の全貌が明らかになったというわけだ。

保谷市のこれらの方々が苦労して集めた証言から、この鉄道敷設に関して以下の様な推定がされている。

【時期は?】-> 昭和19年秋~昭和20年夏?頃
昭和19年秋のある日、兵隊さんがある家にやって来て玄関先を指さし、「ここに線路を敷く」と言って帰った。それから間もなくして、線路が敷かれたそうだ。
【線路は?】-> 軌間600mmの軌匡(ききょう)
戦後に枕木を燃料にしようと取りに行ったら、鉄だったのでがっかりしたという人や、枕木とレールが一体になったものをパタンパタンと敷いていったという証言から、鉄道連隊の軌匡だと思われる(調査活動の結果、実際のレールも発見されたらしい)
【車両は?】-> 鉄道連隊の K2か双合+97式貨車
タライの様な煙突の機関車、ハンドブレーキを回転させるタイプの貨車、等の証言がある様だ。機関車が双合だった場合は相当に目立つはずだが、それと思しき証言がないため、K2 が有力視されている。
Photo
鉄道連隊 K2(@津田沼)

存在期間 1年にも満たない鉄道の痕跡がどこまで残っているか、はなはだ疑問ではあったが、とりあえず現地へと赴いてみた。

参考:
  • 「多摩のあゆみ Vol.79」たましん地域文化財団発行
  • 「トワイライトゾ~ン MANUAL IV」ネコ・パブリッシング発行