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〜〜〜 川越線におされて消えた 〜〜〜

川越の街に最初に鉄道が到達したのは、以前書いた川越鉄道(現西武新宿線)で1895(明治28)年。そしてその 7年後の 1902(明治35)年には、第2番目の鉄道として川越馬車鉄道が大宮〜川越間を開業する。この馬車鉄道敷設の中心となった人物は、川越鉄道の開通により大打撃を受けた新河岸川舟運業者の一人、綾部利右衛門だ。計画では、川越〜大宮間、及び川越〜坂戸間の2路線が予定されていたという。

彼らはその後、川越一帯への給電を目的として川越電灯を起業し、これをすぐに合併する。そして1906(明治39)年この馬車鉄道は、軌間1372mm,電圧600V,大宮〜川越久保町間全長12.9kmの川越電気鉄道へと変貌を遂げる。開業時は二軸の電動客車7両、付随客車2両で旅客を運び、他に貨車8両も所有していた。電車は両終端駅を所要50分で結び、一日28往復していたという。

川越電鉄はさらに傍系会社を設立、神流川水系に水力発電所を建設して供給地域を広げた上でこれを合併し、1913(大正2)年、社名を武蔵水電と改める。大正末期頃までには荒川水系に浦山、大滝等の水力発電所を次々と増やし、一方所沢や鬼石に火力発電所を設ける等、工業用の電力需要にも答えてこの地域での地盤を確固なものとした。国鉄の大宮工場や所沢飛行場、また秩父鉄道の電化に際しても電力を供給している。

そして... 武蔵水電(川越電鉄)はついにあの川越鉄道を吸収合併するまでに成長する。そう、その後拡大して行く西武鉄道グループの歴史の中にあっては、この川越電鉄は川越鉄道(西武新宿線)よりも先輩格という事だ。電力供給域の拡大を目指す武蔵水電と、電化を考えていた川越鉄道の思いが合致した結果の合併劇は1920(大正9)年の事だった。だがそれも束の間、武蔵水電は全国系の電力会社、帝国電灯に吸収されてしまう。但し鉄道部門については帝国電灯に経営の意思が無かったため、別会社:西武鉄道(旧)を興し、そこに分離譲渡された。

この時に旧川越電鉄の区間は川越東線と呼称され、後に西武大宮線となる。だが1940(昭和15)年、国防上の重要路線として急ピッチで建設された省線:川越線が開通すると、西武大宮線はその影響をまともに受け、翌年には廃止に追い込まれてしまう。川越〜大宮間29分と、距離の長いわりに短時間で走る国鉄に対し、小さなのんびりと走るこの電車に到底勝ち目はなかった。


川越電気鉄道沿線図
※一部停留所は省略

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川越久保町

今日も朝から汗滴らせながら黙々と自転車を組み立てている物好きな人間が、川越駅前ロータリーに一人。あ、もちろん私デス。暑さを避けるために八高線の始発で来たんだけど、6時前でもやっぱり夏は暑いのだ。
自転車を組み上げ、律義に信号守りながら人通りの無い駅前通りを抜け、左折して県道を北上開始。すぐに右手に喜多院の杜が見えてきて、角を曲がれば久保町。ここが川越電鉄のターミナルのあった場所だ。

通りに面している成田山前から一本北側の裏手へと抜けると、そこにはちょっと小広い敷地の広がる一角がある。駅跡はこのあたりらしいが、現在は川越市中央公民館や東京電力の施設などが建っている。まだ朝早い時間帯だが、ジョギングや犬の散歩の人達が三々五々、開放されている建物前の広場を横切って行く。
開業当時この駅は、車庫や工場、それに発電所の建物をグルリと囲む様にループ状に線路が敷かれており、そこを廻って電車は折り返していたという。発電所は川越馬車鉄道が川越電灯という電力会社を設立して電化した時に出来たもので、架線への給電の傍ら、市内一円にも電気を供給していたという。してみるとここに東電の建物があるのは、そのなごりなのかも。

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1. 中央公民館
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2. 東電施設
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川越〜沼端

駅跡を離れ、大宮へ向けてスタートする。道路を東へと進むと、いきなり縦横斜めから複雑に小道の交わっている交差点に出くわし、その先に、少し右カーブを描きつつ緩く登って行く路地が見える。ここはまさしく鉄道時代の築堤の雰囲気だが、それも長くは続かず、すぐに県道に合流して立派な車道へと替わってしまう。しばらく当時の光景を思い描きつつ写真を撮ったりしてその場に佇んでいたが、暑くなる前に大宮に辿り着かねばと思い出し、先を急ぐ。

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3. 線路跡は正面奥へ
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4. 振り向けばいかにも築堤



やがて行く手に流れる大河の様なR254が見えて来るが、その手前には小さな流れが淀んでいる。これが舟運で栄えた新河岸川へと続くものだが、川越至近の仙波河岸はもうちょっと下流にあったので、当時ここに橋があったのかどうかは良くわからない。現在は立派なアーチの歩道橋!が、この流れと国道を一跨ぎに越えている。

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5. 新河岸川上流部



ここを過ぎると、線路跡は右手後方から合流して来たR16と一体となり、通行する車もさらに増えて、当時のよすがも無い状況が続く。でもちょっと脇の小道にはこんな時代物の橋も見られる。土埃にまみれたコンクリートの欄干には、築大正十三年と書いてあった。

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6. 古い橋



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