Photo 日暮里駅 京成線上りホーム

成田スカイアクセス対応で新装なった京成の日暮里駅。 地上3階に持ち上げられてライナー専用乗り場も出来た華やかな下りホームに比べると、成田方面からの列車が到着する上り線は旧来の地上ホームを改装して使っており、若干薄暗く地味に感じられる。 ここから僅か1区間だけ乗る客も滅多にいないから、電車を待つ人影も少なく、ホームは閑散としたものだ。

やって来た電車、大半の客が下車してしまった後の車両に乗り込み、動物園にでも行くのか先頭部でかぶり付きをしている親子連れに混じって私も前方を見つめる。 すっかり身軽になった3600形は、発車すると駅の屋根下を抜け出してたちまち空の広い高架へと駆け上がり、右へカーブして眼下に広がる大河のようなJR線路群を見下ろしつつガーダーをゆっくりと渡り始める。

橋を渡り切ると早くも上野台地の崖がすぐ目の前に迫り、ここから線路は下り勾配となって住宅地の裏手のような切り通しの奥にはもう、上野地下線のトンネルが四角い口を開けて待っている。 架線柱のビームを透かして見るその額のあたりに「東臺門」と書かれた何やら由緒ありそうな扁額が飾られているのを一瞬残像に残し、電車は車輪をきしませながら真っ暗なトンネルへと突っ込んで行った。

Photo 京成 上野地下線入口

はじめに

京成の上野地下線が終戦間際に営業を休止され、そこへ国鉄*1の車両が引き入れられていた時期があるというのはそのスジの間では良く語られる話だ。 しかし、軍事機密という事からか当時の明確な記録資料や写真が皆無であり、事象としては都市伝説的なベールに包まれている。 この件について京成電鉄の公式資料への記録としては、例えば戦後22年を経て編纂された「京成電鉄五十五年史」だと、その年譜に以下たった1行の記載があるのみだという。

昭和二十(1945)年四月九日:上野公園・日暮里間の地下営業を休止して運輸省に貸付

詳細に関しては今ひとつハッキリしない部分も多いが、オーラルヒストリーとも言える目撃者たちの証言からすると、少なくとも実際に車両搬入があったのは事実のようだ。 ここでは、手元にある参考図書2冊を元に疑問な点について順次紐解いてみたいと思うが、それぞれ記事中に引用されている証言が核となるので、それらの記事に敬意を表しつつ孫引きになってしまう箇所が多い事をご容赦願いたい。 そこから色々自分なりに妄想してみるのも面白いと思う。 ちなみに現地の写真は2011年5月に沿線を歩いて撮影して来たものである。

参考図書
  1. 鉄道ピクトリアル1997年1月臨時増刊(京成特集号)「京成電鉄“不思議発見”」 石本祐吉 著
  2. 民営鉄道の歴史がある景観Ⅱ「博物館動物園駅(京成)」 佐藤博之、浅香勝輔 著
※以下、「1-」で始まる引用部は上記参考図書1.より、「2-」で始まる引用部は参考図書2.よりの引用。又、引用文中の下線は当方で付したものである。
*1 本稿(引用部は除く)において便宜上「国鉄」は、国家が経営する鉄道事業の意味で使用する。

その目的は

そもそも何の目的で車両をトンネルへ搬入したのかという事だが、参考図書1.に出て来る証言として下記の記載がある。 証言している鵜沼龍太郎氏は、当時の運輸通信省(旧鉄道省)の関係者である。

1-1A 鵜沼龍太郎氏「終戦後の国鉄客車」鉄道ピクトリアル174号

空襲も烈しくなり,各官庁も疎開することになったが,国鉄本省は東京である程度指揮がとれるようにしようと,京成電鉄の上野駅地下線に目をつけて,国鉄の上野駅と鶯谷駅の中間に国鉄から京成電鉄に連絡する線を突貫工事で作り,15両位の客車を何回かに分けて京成地下線に入れたのは8月の始め頃だったと思う. 車種もイネ(1等寝台)イロネ(1・2等寝台)イ(1等車)ロ(2等車)等で,通信線も引き終り仕事ができるようになったのは8月10日頃ではなかったろうか.」

もう一人、以下の兼松学氏は鉄道省から国鉄に転じて東鉄局長などを歴任し、東海道新幹線の建設推進にあたっては世界銀行から大型融資の承認取り付けにも奔走した人物である。

1-2A 兼松学氏「終戦前後の一証言 ある鉄道人の回想」交通協力会 

「昭和20年の5月ごろから,鉄道の中枢を地下に入れる案が検討されだした. 当時,完全に近い防空壕があったのは,皇居と大本営ぐらいだったと思うが,何しろ時期も適当な土地もない. あれこれ思案の末,思いついた珍案は,京成電軌(現・京成電鉄)の運転営業を日暮里で打切り,日暮里から上野公園(現・京成上野)までの地下線を利用することであった.

早速,陸運統制令に基づいて,運輸大臣から同区間の収用命令が出て,直に三線式工事が実施された. そして尾久客車区や品川客車区などに留置中だった一等寝台車や二等寝台車など八両を移送,地下駅ホーム二線に分割留置して,地下本部とした. 当然のことながら,応急処置として,指令用および主要非常用通信回線を入れ,列車指令と緊急要員の居室,大臣ほか数名の要人用室を定めたほか,東鉄の指令部分を入れることにした.」

参考図書2.の中には、運輸省関係者の証言として以下、柴田元良氏から聞き取った談話の要旨をまとめたものが掲載されている。 柴田氏は当時、東京鉄道局上野管理部施設課長を務めておられた。

2-1A 柴田元良氏(当時の運輸省東京鉄道局上野管理部施設課長)の談話

「第二次世界大戦も敗色が濃くなったころ、アメリカ空軍の空襲が激化するにしたがい、当時の運輸省の指令業務に支障がないように、どこか地下に司令室を設けたいと、いろいろと探した結果、京成電気軌道[昭和二〇年六月二五日に京成電鉄と社名変更]の日暮里-上野公園[現在の京成上野]間の地下線区間を借り受け、戦時下で使用されないまま放置されている一・二等寝台車を、この地下線区間へ搬入し、宿泊設備も整った司令室に仕立てようということになった。

これらによれば、空襲を避けるために鉄道の中枢である国鉄本省を、都心から遠くない場所で地下へ退避させ、宿泊設備も整った司令室に仕立てようとしたとの事。 しかし、目的としては優等客車自体の車両疎開の意味合いも含めてのものだった可能性もありそうだ。 戦時中は優等車や寝台車は運転を取りやめていたからすぐに必要となるものでもなかったが、戦争終結後の事をある程度考慮していたのかも知れない。

Photo 上野地下線を抜け、JR線群の上を行く

搬入された車両

上記1-1Aの資料によれば、搬入された客車はイネ、イロネ、イ、ロ、など、15両位となっている。 鉄な方には先刻ご承知だろうが、客車はその等級により、イ(1等車)、ロ(2等車)、ハ(3等車)、などの形式名が付される。 これにネの付いているのは寝台車で、文字通り「寝る」のネである。 さらに詳しくは、以下、柴田氏の談話の中でも言及されている。

2-1D 柴田元良氏(当時の運輸省東京鉄道局上野管理部施設課長)の談話

日暮里駅南方からの寝台車の搬入作業には、当時の上野保線区の職員が当たった。 毎晩、終電車が通ったあと、田端機関区から、入れ換え用のC一一やC一二などのタンク[蒸気]機関車を借りてきて、マイテ・スイテ・マイネ・マロネ・スロネなどの高級車両を、1両ずつ推進[あと押し]運転で、あの地下線へ運び込んだ。 その推進のとき、急勾配・急曲線の引き込み線上で、何回か機関車が脱線して往生した。 高級車両を全部で二〇両搬入した。 車両と車両の間の両端に、爆風をよけるために砂のバッグを積んで置いた。」

fig
図(トンネル内の距離)

形式名の頭に「マ」やら「ス」やらが付いているが、こちらが正式の呼称であり、先程の証言では省略されていた部分。 これらは客車の重量区分を示す記号になる。 スは37.5t以上42.5t未満、マはさらに重量級で42.5t以上47.5t未満のクラスである。 ただ、「マ」級は戦中には無かった筈なので柴田氏の談話は思い違いか、あるいは戦後に空調設備等を追加して車重が大きくなり、スからマに形式の変わった車両を指しているのかも知れない。 テは展望車のテである。

しかし 1-1Aの証言では15両位、1-2Aでは8両、2-1Dの方では20両と、搬入された客車の数には大きな開きがある。 これは次の疑問で掲げている使用線路数にもよるのだが、例えば複線のうち片側だけを利用して縦一列に繋いだとしたら地下線のどのあたりまで行くのだろう。 客車1両は20m、これが8両なら160mだが、20両だったとすると編成の全長は実に400mにも及ぶ。

トンネル入口から計ると8両なら廃止された寛永寺坂駅を過ぎて最初のカーブにかかるあたりで収まるが、20両だと半径160mの左カーブを過ぎてさらに半径120mの右急カーブを曲がった先、ほぼ博物館動物園駅のホーム付近まで至る距離だ。 参考図書1でも考証されているが、国鉄の大型客車が京成の侠矮な車両限界で出来たトンネルの急カーブをそのまま通過出来たのかどうか、これは大いに疑問だ。 という事でカーブにかからない範囲とすれば、搬入された車両は1線あたり8両程度が限界かなと想像出来るのである。

Photo 芋坂橋から。画面最奥が京成の鉄橋、右手は上野台地

使用線路(上下線か片側のみか)

1-3 鉄道ピクトリアル1997年1月臨時増刊(京成特集号)「京成電鉄“不思議発見”」 石本祐吉氏

しかしここで有力な証言が得られた. 本誌486号で車両めぐりを執筆された京成OBの北条利雄氏によれば,戦後間もなく日暮里-上野間の運転が再開されたとき,当初は上り線のみの単線運転であり,車窓から暗いトンネル内に置かれたままの客車が見えたというのである. すなわち,留置車は下り線のみであった可能性がつよい.

2-1C 柴田元良氏(当時の運輸省東京鉄道局上野管理部施設課長)の談話

「京成の地下線内は複線敷であったが、当時の国有鉄道の一・二等寝台車を複線分入れるには、車両限界の点で無理があったので、当時は一・三七二メートル軌間の京成[現在は一・四三五メートル軌間]の複線を、国有鉄道の一・〇六七メートル軌間の単線に改めて搬入することにした。 複線敷の中央部を単線として使用することになったわけである。 ところが、京成の軌条を取りはずす作業に、予期しない苦労が存在した。 ずい道内で湿度が高いせいか、犬釘がさびついていて、枕木から取り除くのに非常に難儀した。

使用線路についても色々と証言は分かれている。 上記1-3の証言のように下り線のみを使用したと類推される証言、地下駅(寛永寺坂?)ホーム二線を使ったという1-2Aのような説、さらには2-1Cでは複線を一旦全て外してその中央に一本の線路を敷き直したという話も出ている。 確かに3番目の案はトンネルの車両限界を考慮すると合理的なのだが、実際この工事を行なうのは物理的に不可能だ。 何故なら、京成の上野トンネルは上下線の間に構造物としての柱や壁が存在し、これを取り払う事は出来ないからである。

となると残りは両線か片線かの推理になるが、上記1-3で著者の石本祐吉氏も書いておられるようにこれを以って下り線のみが使われたという判断も成り立つかも知れないが、ひょっとすると運行再開以前には上り線にも客車があって、急ぎそれを取り除いてから電車を走らせたという想像も出来ない事はない。

上下2線を使った場合の利点は短い区間でより多くの客車を留置出来るという事だ。 あるいは寛永寺坂駅の両ホームも利用して上下客車間のドアを板で渡せば、幅方向にも広がりを持たせた事務所を設ける事が出来たのではないかと類推されている。 問題は、両方の線路へ車両を乗せるためにトンネル入口に分岐を設ける必要がある点だが、緊急時の事ゆえ、ちゃんとした分岐器でなく一時的に線路を曲げて繋ぎ変えるだけで良かったのかも知れない。

はて、真相はどうか? 確証は無いが、私の推測は2線に分割留置したという説。 これだと1線あたりは8両で合計16両。 15両という証言にも近いし、20両にもそう遠くない数字だ。

Photo 鉄橋を越え、上野地下線(画面手前)へ下って来る線路

軌間の問題(3線式か敷き直しか)

軌間の違いに関しては3線式に改造したという記述が1-2Aに見られるが、これは果たして実際に行なわれたのだろうか。 当時の京成は地下鉄との相互乗り入れ話など出て来る遥か以前だから、軌間はまだ1,372mmの時代。 対する国鉄は1,067mm。一般的に営業線での3線式は1,435mmと1,067mmでは多くの実績があるが、1,372mmと1,067mmの組み合わせだと国内で他に存在したことはないようで稀有な例だ。 今だったら、京王線と井の頭線がどこかで繋がっていたりすると実在しても良さそうだが。

3線軌条化が行なわれていた場合、トンネル内の線路を改造する工事は環境も悪く、かなりの困難を伴うものであったかも知れない。 ただ、通常の3線式は両軌間を列車が共存して運行する前提での事であるが、この場合とりあえず京成が走る考慮は必要無いのだから、1,067mmの狭軌優先でかなり乱暴に敷いてしまう施工も可能だったと思われる。

一方で、先の談話2-1Cにもあったように、線路を一旦引き剥がしてゲージを変えて敷設し直したというやり方も出来たかも知れない。 後での復旧に時間がかかる欠点はあるが、この方法であれば線路中心も出るので車両限界の問題も多少緩和され、大型客車のカーブ通過も容易になりそうだ。 この談話の「複線敷の中央部を単線として」はトンネル構造的にあり得ないが、「複線」→「線路」、「単線」→「狭軌」と読み替えると、上下線それぞれを改軌して敷き直す工事内容になって意味が通じてしまう文になるのが少々気にかかる。 あるいは談話の聞き取り時に、話し手との間でその内容に誤解が生じてしまったのかも知れない。

Photo 上野地下線へ進入するスカイライナー
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