搬入経路は

さてこの件で最大の謎は車両搬入の経路である。 当初私はそのルートについて、国鉄と京成との間に渡り線を設置した位に軽く考えていた。 日暮里駅の構内で京成と常磐線はすぐ隣り合っており、線路は同一平面上にある。 ここのホーム手前あたりに渡り線さえ設ければ、あとは京成の線路(もちろん改軌が必要だが)を利用してそのまま高架へと上り、容易にトンネルへ至る事が出来るからだ。 だがこの想像は全く違っていたことを、以下、柴田氏の談話内で知らされる事となった。

2-1B 柴田元良氏(当時の運輸省東京鉄道局上野管理部施設課長)の談話

戦局が悪化してきた昭和二〇[一九四五]年五月ごろから着工した。 国有鉄道の日暮里駅南方[鶯谷方]の山手・京浜東北の両線の北行線の線路に、一〇番ポイントを入れ、京成の地下線入り口に向けて線路を敷いた。 当時は山手・京浜東北の両線が線路を共用していたので、山側の谷中霊園側には、このような線路を設ける余裕もあり、今もあそこにある外人墓地などを崩すこともなく、軌条が敷けた。 しかし、京成の国有鉄道こ線橋の西詰付近に取りつくまで[図187の写真の右手の石垣の下に、それらしい空き地が今も残っている]に、かなりの急勾配・急曲線の線状で、墓地の裾を上がって行くこととなった。」

この証言からすると、京成線とは反対側の山裾に山手線から分岐する短い連絡線を設け、崖を急勾配で登ってトンネル入口へと取り付いたという。 これはちょっと予想外だった。 証言1-1Aでは「上野と鶯谷駅の中間」と記されているが、この「上野」はおそらく「日暮里」の書き間違いだろう。 とすると、上記の談話とも一致する。 しかし何故、京成の高架を使わなかったのだろうか。 乗客の目の多い日暮里駅構内での工事を避けたから? 改軌の必要な区間が長くなるから? 京成の鉄橋が車両の重さに耐えられない? あるいは鉄橋上での脱線事故を危惧していたのかも知れない。

Photo 連絡線分岐点はこの辺か。後方に御隠殿坂橋と京成ガード

柴田氏の談話の中(2-1D)でも言及されているが、実際に作られた連絡線の方でも機関車の脱線が何度か発生したらしい。 もしこれが京成の鉄橋上で起きたら結構一大事だ。 ここの鉄橋はガーダー構造なので、脱線すなわち機関車の転覆、落下となる危険性が極めて大きい。 落下に至らないまでも鉄橋上での復旧作業が長引けば、下を通る重要幹線の東北本線や常磐線、また山手や京浜東北の走る電車線を全て抑止しなければならないので厄介である。

では実際の連絡線は具体的にどの位置に敷かれていたのだろうか。 それを検証するには、やはり米軍空中写真の出番となる。 さすがに連絡線の写っているものは見つからなかったが、国土地理院のサイトで探すと1948年撮影の写真にその痕跡らしきものが撮影されているのを確認した。 早速原版をデータ購入して取り寄せ、該当部分を GoogleMapにレイヤーとして重ねてみたのが以下の地図である。 申請の結果、国土地理院の承認も得られたので公開する。

国土地理院 空中写真 米軍撮影(USA-M860-42)1948年 より
※この空中写真は、国土地理院長の承認を得て複製したものです。(承認番号 平23情複、第731号)
注意:
  • Google Map API 有償化に伴い本ページ初期表示時にエラーが表示されますが、OKを押してお進み下さい。
  • 本ページ内の空中写真は複製禁止です(複製する際は国土地理院長の承認を得る必要あり)。
  • 国土変遷アーカイブ」にて公開された空中写真画像は、閲覧以外の目的で使用することはできません。
  • 画像を利用するには、刊行されているデータを別途購入する必要があります。詳細は こちら をご参考まで。

国鉄線路の南西側は谷中の墓地だが、その淵にそって連絡線が崖を登っていた跡らしきものが白く写っている。 この部分、私は墓地内の余地を線路敷に転用したのかと思っていたがそうではなかった。 当時の山手・京浜東北共用の北行線と墓地との間にはまだ(おそらく斜面状の)空地があって、そこを使ったのだ。 そこが戦後になって山手・京浜東北線を分離運転化する際に掘り下げて整地され、2線分の用地が確保されたようだ。 現在この部分は側壁が石垣で土留めされており、その事を暗示している。 連絡線跡の途中にあるのは御隠殿坂橋だが、これが線路に支障するのでその部分の桁が外されているのが分かる。 それを裏付ける記述が参考図書1.に載っている。

1-4 鉄道ピクトリアル1997年1月臨時増刊(京成特集号)「京成電鉄“不思議発見”」 石本祐吉氏

現地に立ってみると,この橋は京成線とほとんど同じ高さで,ここから京成線に取りつくまで水平距離にして100mもないのであるから,この橋の下をくぐることも,上を乗り越えることも到底考えられない. 本当にここに連絡線が作られたのであろうかと信じがたい思いがするのであるが,ここで沢柳健一氏から新しい情報をいただいた. 鉄道友の会の機関紙『レールファン』第473号(1992年9月)の「あの場所はいま・・・・・・上野のお山に引込み線」と題する吉田明雄氏の記事である. 沢柳氏提供の付近見取り図も掲載されていて,問題の御隠殿橋は使用を中止して脇の踏切を利用したとの説明がある(ちなみにこの記事には,「トンネル内に寝台車10両を引込み,幹部はここで執務した,と大井工場90年史には記録されている」との記載もある). 山手・京浜東北複々線化前であるから,墓地寄りの1スパン分は下に線路がなく,取り外し作業も容易にできたのであろう.

Photo この通路が怪しげに思えたが、そうではなかった

御隠殿坂橋をクリアした後は右に急カーブして京成の下り線へと繋がって行く。 この接続部分で京成はガードの方から急勾配を下って来る線路になっているが、そこへ連絡線を直接繋ぐと高さに無理があるので、一旦この部分を切り下げて路盤を低くしたという。 国鉄の線路を越えて来る京成に対し、連絡線の方はそこまでの高さを必要としないので、こうなったという事か。

1-5 鉄道ピクトリアル1997年1月臨時増刊(京成特集号)「京成電鉄“不思議発見”」 石本祐吉氏

さらに,前記の北条利雄氏が当時会社上層部から聞かれた話として,問題の連絡線は京成の下り線にそのまま取りついたのではなく,何と接続部分の下り線を撤去したあと路盤を切り下げたのだという. 付近一帯ではすでに3月の大空襲で焼き尽くされ住人はほとんどいなかった.

しかし、こういったあたりの突貫工事だと鉄道連隊の影がチラついても良さそうだが、それを思わせる証言は無いようだ。 戦争末期、その主力は既に九州へ移転したり海外の戦地へと展開していたためだろうか。 ちなみに、奇しくもこの合流点真下の地下を、現在では東北新幹線のトンネルが直交するように貫いている。

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連絡線 縦断面簡略図
Photo 御隠殿坂橋は一番向こう側の桁が外されていた
Photo 連絡線跡は線路上。石垣の傾きで勾配を連想出来る
Photo 左手へ降りて行く道が元の御隠殿坂。この先が踏切跡か
Photo 右手茂みのあたりで京成線と合流していた
Photo 石垣横の白いコンクリートが合流点復旧部か。画面奥が鉄橋

搬入の方法は

搬入の方法については、2-1Dの証言からして動力に国鉄のタンク式蒸気機関車C11やC12が使われた事がハッキリしている。 当時国鉄にここで使えるような出力の小型ディーゼル機関車は存在しないし、架線を敷設する余裕も無かっただろうから電気機関車という選択肢もなくなるわけだ。 炭水車の付いてない入換用の小型蒸気は、煙の問題を除けば軽量で小回りもきくし適任ではある。

作業としては、夜陰に乗じて数両の客車を引いて来た機関車は、連絡線分岐の鶯谷駅側で一旦停車し、1両ずつ切り離した客車を順に連絡線へと押し上げていったものと想像する。 まず1両目はトンネル入口のすぐ奥へ停車させて客車側のブレーキをかけた後に機関車から切り離す。 次に2両目を運び上げて来て1両目と静かに連結した所で客車ブレーキを解放し、そのまま奥へと1両分押し込む。

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play animation
搬入想像図

1線あたり8両程度であれば、これを繰り返す事により、機関車はトンネル内に入らずして客車を奥へ奥へと押し込んで行く事が出来る。 それを考えると蒸気機関車の向きも、トンネル側にキャブが来て、多少機関車がトンネル内に入ったとしても煙突が外へ出るように考慮されたかも知れない。 何しろ、狭いトンネルの奥深くで煙と格闘しながら連結や解放を行なうというのは、非常に厄介な作業になる。 下手をすれば機関士や作業員が煙に巻かれて窒息してしまうかも知れないのだ。

Photo 御隠殿坂橋上から接続点付近(白いビルの下)を望む

車両搬入の効果

そこまで苦労して搬入された客車たちだったが、果たしてその効用はどうだったのだろうか。 これに関して三氏の証言は、以下のように見事に一致している。

1-1B 鵜沼龍太郎氏「終戦後の国鉄客車」鉄道ピクトリアル174号

「しかし,中は湿気がひどくして執務できるような状態ではなく,8月12,3日頃には戦争終結のうわさもちらほらするようになり,さっぱり使わず無駄骨を折ったような結果になった. 終戦後米軍の要求によりこの客車が必要になり,引っ張り出すのにまた大骨折りをしたものであった.」

1-2B 兼松学氏「終戦前後の一証言 ある鉄道人の回想」交通協力会 

「ところが,トンネル内は,平素,列車の走行で,風圧,つまりピストン効果とでもいうか,かなり換気されているのか,それほど不快感はなかったが,いざ留置車両のなかで仕事をしてみると,駅の換気設備では容量不足なのか,半日ぐらいいると,何となく頭が痛くなってしまうので,私などは,危険と知りながらも,つい本省庁舎へ戻って仕事をすることが多かった.

そんな訳で,総理官邸などとの連絡も不便だったので,大臣室は設けたものの,殆ど使われず,列車指令やその他の担当者が非常用回線に張り付いていたていどで,あまり実用的な効果をあげないうちに戦争は終了した.」

2-1E 柴田元良氏(当時の運輸省東京鉄道局上野管理部施設課長)の談話

「終戦直前の七月に完成したが、ずい道内の湿気のため通信線が通じず、通信の効用が発揮されなかった。 あの当時は、通信線が裸線で、現在のように発達していなかったので、やむをえなかったと思う。 結局、終戦までその『地下司令室』は使用されず、『幻の司令室』に終わった。

いやはや、散々の悪評判である。 苦労して設置した関係者の人々、そして貸し出した京成にしてもその甲斐が全くなかった結末ではある。 今と違ってエアコン等の換気設備も発達していない時代、トンネルの居住環境はかくも過酷なものだったのか。

復旧の状況

最後に復旧の状況だが、前出の空中写真から見るに戦後3年を経て京成の線路も既に上下線共復旧し(日暮里~上野公園間の運転再開は終戦の年10月1日より)、連絡線のあった斜面も整地されたようだ。 先の証言のように当初の運転再開は上り線のみを使った単線運行だったと言うが、一旦切り下げされて鉄橋との間に段差の生じた下り線側は、造成工事での路盤復旧を待たなければならなかったものと思う。

東臺門のその奥に疎開させられた客車たち。 1~2等級の立派な車両は、終戦後、進駐軍に要請されておそらく将校らが乗車する専用列車等に充当されたのだろう。 現在各地で保存されている旧客車の中にも、地下線に入れられた者が残っているのかも知れない。 ひょっとして私が青梅鉄道公園で出会い、後に大宮の鉄道博物館に収容されたあのマイテも、その一員だったりするのだろうか。

1948年の空中写真では御隠殿坂橋はまだ連絡線部分の桁が外されたままだが、この翌年には日本国有鉄道が発足し、8年後には田端~田町駅間の線増工事が完成する。 かつて連絡線のあったその桁の下を、分離運転された山手線と京浜東北線の北行電車が、たくさんの客を乗せて疾走するようになるのである。

- 終わり -
Photo 地下線入口の奥には寛永寺坂駅の跡が眠る
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