photo

はじめに

東五鉄道について知ったのは、たましん地域文化財団の出している季刊郷土誌「多摩のあゆみ」第97号によってである。 特集「まぼろしの鉄道」という事で、主に多摩地域に関連した未成線や廃線に関する内容となっており、その中に東五鉄道についての記事も掲載されていた。 未成線という事では、本サイトでも開設初期に「夢に終った鉄道たち」という記事を掲載しているが、その中にも入っていない。 東五鉄道は未成線、それも免許さえ通らなかった計画上の路線なので、ネット上で検索をかけてみても、この特集号についてがヒットするくらいで、他は全く情報がないのだ。 手元にあるものは、だいぶ以前に国立の財団を訪問して入手していた「多摩のあゆみ」の中の一冊であるが、せっかくなので記事を参考に、以下で少し東五鉄道について考察をしてみたい。 (2020/10)

多摩のあゆみ 記事

記事は「史料紹介・東五鉄道 -多摩市・富澤家文書から-」というタイトルになっているが、その元となっているのは、当時の多摩村長 富澤政賢の子孫の家で発見された「東五鉄道株式会社創立申請書」「起業目論見書」「仮定」等、明治29(1896)年8月付けで申請された同鉄道基本資料である。 それによるとこの鉄道は東京赤坂を起点とし、西多摩郡五日市町に至る33哩(約53km)の路線という事で、東京および五日市の頭文字をとって東五鉄道と名付けられたものと推測されている。

そのルートは、東京市赤区福吉町~麻布区材木町~豊多摩郡渋谷村(日本鉄道赤羽線渋谷停車場)~荏原郡世田谷村~北多摩郡調布町~南多摩郡稲城村~同多摩村~同七生村~同八王子町~同川口村~西多摩郡五日市町 となっている。

※水色マーキング部(例:)は、原文ママを示す

東五鉄道 線路略図

map

「多摩のあゆみ」には、申請書類に添付された「東五鉄道線路略図」も掲載されているので引用しておく。 当時、東京西方へ伸びる鉄道路線は、飯田町~八王子間の甲武鉄道、および立川~日向和田間の青梅鉄道のみである。 なお、この申請と同年12月に官設鉄道の八王子~上野原駅間が着工され、5年後の明治34(1901)年に開通となっている。

※紫色マーキング部は加筆
map

線路略図のうち、八王子~五日市間を拡大してみる。 都心方面から長沼を経て八王子市街地の南縁に達した東五鉄道は、甲州街道と交差し、八王子西北部の下一分方と下二分方(現在、弐分方町や上壱分方町が存在する)の間で秋川街道を渡り、そのまま五日市方面へと向かっている。


東五鉄道 推測ルート

線路略図の八王子~五日市は両地点間を滑らかな曲線で結んでいるだけなので、もし実際に工事を前提とした詳細な線路平面図が作成されたらどうなるか、Googleマップ上に推測ルートを入れてみた。 ポイントは以下である。

八王子駅:
長沼方面から八王子市街地南側へ入って来て甲武鉄道の八王子駅と接続。 …なのだが、既に官設鉄道の八王子~上野原間開通後の位置(2代目:現在の場所より西側150m付近)が決定されている時期と思われるので、そちらに合わせる。 (参考:八王子駅界隈の廃なもの
中央線交差:
八王子駅を出ると建設予定の中央線と交差になるが、ここは当然ながら立体交差が要求されたであろう。 問題はその位置だが、甲州街道に沿って東西に伸びる街並みを避ける為、西側へある程度距離をかせいだ後で乗り越す(あるいは潜る)形になりそうだ。 想定位置としては、裁判所踏切の高尾寄り付近か?
甲州街道交差:
次は甲州街道との交差だが、昭和以降の工事なら高架でそのまま進むのであろうが、明治期であれば、中央線を越えた後に地上へ降ろして平面交差で済ませてしまうのではないか。 そこまでの距離が短めだが、計算すると勾配も国鉄の線路等級で言うところの甲線基準に余裕で収まるので、蒸気機関車でも問題なく走行出来る。 踏切の場所は追分町交差点より東側となりそうだ。
浅川橋梁:
次に待ち受けるのは、八王子市街地の北側を東西に流れる浅川である。 申請書の線路略図には浅川が描かれていないが、あまり西へ行ってしまうと、二手に分かれた北浅川・南浅川にそれぞれ架橋する必要が生じるので、位置的にはそれより下流だろう。 甲州街道踏切との位置関係も考慮すると、鶴巻橋の近辺で川を渡る事になりそうだ。
川口村:
その後は北浅川と川口川の間を秋川街道に沿って進んで行くが、申請書の経由地に川口村が記載されている(線路略図には記載無し)ので、現在の川口町あたりに停車場を設ける必要がある。 その先五日市へ至るには、川口川を小さな橋梁で渡って山側へ移り、途中どこかで丘陵を越えて秋川の谷へと出なければならないが、必然的に山越えルートはこの停車場より奥手となる。
山越え:
秋川街道はこの谷最奥部で小峰峠を越えているが、線路略図だと五日市町の東側から進入するような記載になっているので、少し手前にトンネルを掘ってみた(笑)。 場所は都道61号線が上川・網代トンネルで抜けているあたりで、当然ながら鉄道もトンネルが必要である。 長さは、前後区間で目いっぱい高度を稼いで最小限のトンネルにしたとしても、1km強の掘削となりそうだ。 東五鉄道申請の同年に着工された中央線の笹子隧道は4.6km程あるので、資金面の問題はあるが技術的には当時でも可能な距離と言えるだろう。
五日市駅:
トンネルを抜けた後はすぐに秋川を渡る事になるが、高低差がかなりあるので、山裾を徐々に西へと下り、川向うの段丘崖と同レベルになった所で鉄橋を架ける。 川床までも結構深いので、私の好みとしては景色映えする上路トラス橋を選択したい。 終点の五日市駅は、現在の武蔵五日市駅の正面に突き当たるような位置関係だろうか。 ここに五日市鉄道の駅が開業するのは、昭和も近い大正14(1925)年、東五鉄道申請から30年近く後のことだ。


map

上のルートを、明治初期から中期に作成された「迅速測図」を公開している 歴史的農業環境閲覧システム の八王子付近にマッピングしてみる。 同システムには、目印として現在の鉄道が重ね書きされているが、東五鉄道の申請当時は、甲武鉄道の停車場がJRの八王子駅と京王八王子駅の中間位置あたりに開業しているのみであった。 八王子市街地は甲州街道に沿って東西に長く伸びており、その外側には農地が広がっている。