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東五鉄道 ルートの現況

以下、想定ルート上の各地点を自転車で周って写真を撮って来たので、何枚か掲載してみる。 年月を経てそれぞれ都市化、宅地化が進み、当然ながら当時の状況とは大きく異なっているが、この鉄道がもし今に残っていたらと考え、色々と妄想してみるのも面白いだろう。

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八王子駅南口:

再開発が行なわれ、地上41階建ての「サザンスカイタワー八王子」が聳え立つJR八王子駅南口。 官鉄の八王子~上野原間開通時の駅(二代目)位置は、この高層ビル裏手あたりになる。 東五鉄道の八王子駅もそこに横付けする形になりそうだが、官鉄は街のある北口にしか駅舎を設けないだろうから、そこへ間借りするなら細い跨線橋で繋げる形か。


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中央線交差部:

八王子駅から築堤で徐々に高度を上げ、想定ルート上で中央線と交差するのがこの踏切の奥手あたり。 中央線の線路も若干切り通し状になっているので、桁下高を稼ぐには好都合かも知れない。 ここは「裁判所踏切」と名が付されているが、当の裁判所はとっくの昔に移転してしまい、今は近くに存在しない。


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甲州街道踏切:

東五鉄道が甲州街道を踏切で渡るのは、ここ本郷横丁と追分町の信号の中間地点あたりとなりそうだ。 当初は踏切で済むだろうが、その後生き残っていたら、昭和期あたりで立体交差化の工事は必須だったろう。


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浅川橋梁:

想定ルートとほぼ一致する鶴巻橋の上から、浅川上流方向を望む。 写真奥で右手から北浅川、左手から南浅川が合流して来ているのが分かる。 そのままだと線形的に鉄橋は川と斜交する形になるので、前後にカーブを設けて直交させ、最小限の長さで渡る配慮が必要だ。


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川口町付近:

秋川街道沿いの集落を避けつつ、ほぼ平行したルートで川口町まで達する。 右手に川口川が見える様になると川口小学校前。 当時の町中心部がどこか分からないが、付近に八王子市川口事務所、駐在所、JA川口支店なども集まっているので、このあたりに駅を設けてみよう。 駅名は川口駅、東北本線の川口(現:岩手川口)駅が明治31年開業だから、そちらに先を越された場合は「武蔵川口」あたりが妥当だろう。


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山越え区間:

川口駅を出ると川口川を渡り、村落裏手の山裾を勾配で徐々に高度を上げる。 右にカーブを切って都道61号に沿うように上川霊園あたりを通過し、その先でトンネルに入る。 位置的には、写真の上川トンネルの左手側あたりか。 東五鉄道で最長かつ唯一の隧道工事個所、資金的にも大きな負担となる事だろう。


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秋川手前:

トンネルは秋川へ向かって若干の下り勾配にする必要があるかも知れない。 というのは、そのまま秋川へ出ると、向こう岸との間にかなりの高低差があるからだ。 写真はほぼフラットな都道のトンネルを出た先、秋川対岸へと渡る長大な橋だが、それを示す様に結構な下り坂となっている。 東五鉄道はここでは川を渡らずにその手前側で左にカーブして、しばらく山沿いに下って行く事にする。


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秋川橋梁:

秋川右岸の山裾を下って来た結果として、想定ルートで鉄橋を設けるのは、この五日市橋の付近になりそうだ。 ここまで来れば、対岸との高低差も解消出来ている。 そして、S字に蛇行する秋川を避けて一箇所だけの架橋で済ますには、この位置が好都合なのである。 橋梁は前述したように、上路トラス橋の一択だ。


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五日市駅:

そしてようやく終点、五日市駅に到着する。 こちらも山陽本線の五日市駅がまだ出来ていないから、堂々と「五日市駅」を名乗れるか?  写真正面は現在の武蔵五日市駅だが、そこへ丁字に突き当たるような位置関係となる。 あるいは、その後伸びて来た五日市線に右急カーブで繋げて環状運転?なんて事も妄想してみたが、線形的にはかなり無理がありそうだ。


東五鉄道 計画の背景

最後に少し、東五鉄道の会社としての側面についても触れておこう。 まず創立の中心人物だが、記事によると申請時の事務所は東京市赤坂区榎坂町の西野寛司方に置かれていたとの事から、この人物である可能性が高いとされている。 谷保村の出身で、大正末期に箱根土地株式会社によって国立大学町開発がなされた時期には谷保村長であった人物、台湾鉄道株式会社とも関係していたようだ。 但し、当時まだ寛司は若年だった為、実際は発起人の一人である父の西野芳寛(東京府会議員)が動いていたと考えられている。

この鉄道の創立申請書に名を連ねた116人の中で、西多摩方面は根岸太助(青梅町)内山安兵衛(五日市町)瀬沼伊兵衛(西秋留村)の3名。 このうち根岸太助は青梅鉄道創立発起人の一人であり、後の青梅町長も務めた人物、内山安兵衛は「五日市憲法草案」起草の基盤となった五日市学芸講談会を組織、大正期には五日市鉄道社長にも就任している。

次に資金面を見てみよう。 「起業目論見書」に記載の鉄道建設費用は総額150万円で、これには車両や駅などの建設費用も含まれる。 それが金額として現実的な数字かどうかは、実現した他の鉄道費用と比較してみれば明らかだ。 そこで甲武鉄道についてみてみると、八王子までの建設費が明治三〇(1897)年時点で173万円余であったことを考えれば、あながち非現実的な数字ではなさそうである。

さてその審議結果だが、申請翌年の明治三十(1897)年第八回鉄道会議で早々に却下となってしまう。 その理由としては「東京付近鉄道線路大体ノ経路上其必要ナキモノト認ムルニ依リ本案ノ如ク総テ之ヲ却下セントス」というものであった。 その後しばらくは関係者による善後策協議などあったらしいが、それもいつしか沈静化し、計画は立ち消えとなった。

ところでこの鉄道で注目すべき点として、発起人メンバーの多くが三多摩東京府移管の反対運動を行なった人々だった、と記事には書かれている。 それまで三多摩地区は神奈川県に属していたが、明治二十二(1889)年に甲武鉄道が八王子まで開通すると、東京と三多摩との結びつきが急速に強まった。 そこで明治二十六(1893)年、三多摩を東京府に編入する法律案が帝国議会にて可決成立されている。 東京府への移管を強硬に拒否していた人達が、その後3年ほどで、五日市と都心部を直結する東京横断鉄道を構想している点は非常に興味深い。 この地域の人々の東京志向が急速に進んだのだろうか。


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東五鉄道は結局、まぼろしの鉄道として終わってしまったが、こと八王子~五日市間に範囲を絞ってみると、今もこの近辺はバスに頼らざるを得ない地域となっている。 そしてこの2地点間を鉄道で移動する場合、八高線、五日市線を乗り継いで拝島を経由する事となり、大きく迂回したルートになってしまう。 もしも東五鉄道が八王子~五日市間の八五鉄道となり建設が実現していたら、そして国鉄、JRと引き継がれて生き残っていれば、あるいは八王子西北部ベッドタウン化の足として大きく貢献していたかも… などと少々妄想もしてみたくなるのである。

参考:
「多摩のあゆみ」第97号 特集 まぼろしの鉄道
  1. 史料紹介・東五鉄道 -多摩市・富澤家文書から-(倉持順一、平塚健太郎)