3. Irumagawa
さてその先の入間川の方はどうなっているのか... 少し覗いてみておこう。 架け替えられた新鉄橋はご覧の通り立派な複線のトラス構造、銘板には昭和39年製とあるので、これも記録上の架け替え時期と符合する。 では旧橋の方はどうかというと、入間川右岸の川越市駅側には何も残っていないものの、川の中程に若干の構造物跡らしき物が見えているのがわかる。 これについてネットで情報収集してみると果たしてそのようで、河川増水時に表層の土砂が流され、以前は見えなかったケーソン(橋脚の基礎部分)が露出して来た物らしい。
橋(もちろん道路橋)を渡って左岸の霞ヶ関駅側へと行ってみる。 堤防下の広場を通って中州状の河原に足を踏み入れると、先ほど対岸から見た土台の跡が目の前に薄く横たわっている。 もちろん地中深くその基礎部分が足を踏ん張っているのだろうが、表から眺める限りはそれ程の物とは感じる事が出来ない。 しかし輪郭を見ると確かにこれは橋脚と同じく長円形で、表面も変色した古そうな煉瓦に覆われているのがわかった。
そしてこちらの岸にはもう一つ、東上線の遺構として結構有名な橋台が、堤防の外側にデンと鎮座しているので忘れずに見ておきたい。 この橋台、実に堂々とした頼もしい形をしており、だいぶ前にうちの掲示板でも話題となった物だ。 私自身もその後何度となくここに見に来てはいる(美しい筈の煉瓦積みが昨今落書きで醜い事になっているのは残念だ)が、これについて資料で調べる機会もあまりなく、その当時に提起された疑問の答えも見付からないままになっていた。
- で、(その時課題となっていた)疑問その三...
- ■何故に橋台が左岸にだけ残っているのか
右岸の橋台が失われている点については、確証はないものの、おそらく護岸工事等により邪魔になったせいで取り払われたのだろうと考えられる。 それに対してこちら側は、流路の変化か住宅地の侵食によるものか堤防が前進してしまった為に、その背後に取り残された形となり、そのまま保存(というか放置)されているのであろう。
- そして最後に、疑問その四...
- ■どうしてこの橋台だけ複線仕様なのか
当時の東上鉄道は単線で敷設され入間川も単線の橋で越えていた筈なのに、何故この橋台だけが複線用の構造なのかという疑問だ。 これについては別件でネットを検索していた際にあっさりと答えがわかった。結論から言ってしまうと、あまりに立派なので複線用に見えてしまうものの、これでれっきとした単線用なのだ。 煉瓦積み橋台には、鉄橋の構造体を支える硬い石で出来た「床石」という部分があるが、この床石、そして旧橋がガーダーでなくトラス橋であったという事が、その疑問解決の為のキーとなる。
写真で灰色に見えている部分が床石であるが、一見両側に 2箇所、複線分の線路が乗る構造に出来ているように感じられる。 しかし実はこの箇所に乗るのはトラス構造の梁であって、線路の部分を支えるのは中央上部の小さな床石になるとの事だ。 そう言われてみれば中央の床石は小さくてほぼ軌道の幅に置かれたペアで対岸の跨道橋と同じ作り、両サイドのそれは比較すると大分大きな物が設置されており、納得出来る。
この情報については以下のサイトよりご教示頂いた形となったが、鉄道橋梁に関して大変詳しく書かれており、非常に参考になった。
参考:きまぐれ旅写真館追記:「東上鉄道案内」(東上鉄道株式会社 大正6年1月1日発行)に以下の記載があるとの事で情報頂きましたので、引用致します。
「川越的場間の入間川に架した入間川鉄橋は実に本線唯一の難工事を以て知られた関東地方屈指の大鉄橋で特に本線の誇とする所である。 橋梁の総延長九百尺、六個の隧道型経間よりなり三個の石造橋柱は川中に吃立して正に沿線中の偉観である。 工費約十五万円東上鉄道株式会社技師長小沢義平氏の設計に係り杉井組の請負を以て大正五年二月中旬工を起し同十月下旬竣成した。 車上線入間川を過ぎて新設鉄橋の壮観を思はぬものはない。」