「青梅線 石より人が 安く見え」
これはその昔沿線で詠まれた川柳だそうですが、石灰石輸送が主目的で建設された青梅線の性格を良く現している名句ですね。 その青梅線を支えて来た石灰石の採掘現場は、鉱床の枯渇と共に日向和田、二俣尾と奥地へ移動して行き、その後日原が主産地となりました。 これを、鉱山開設期から一貫して運び出す役割を果たして来たのが、青梅線の石灰石輸送列車です。
最盛期には ED16機関車が 16~18両編成のホキを連ね、日に 9本もの列車が立川を経て浜川崎へと向かっていましたが、当時南武線にはまだ単線区間も多く線路容量が足りないため、一部は新宿を経由して山手貨物線ルートでも運び出されていました。 そんな中1967年、新宿駅構内でこの貨物列車と米軍燃料輸送のタンク車が衝突し、炎上するという事故も発生しました。 それが契機になったのかも知れませんが、奥多摩からの石灰石輸送は翌年より青梅線+南武線に一本化され、以後石灰石ルートとして定着する事になったのです。 ところが近年、氷川鉱山の地盤崩落により今後の大規模な採掘は見込めなくなり、奥多摩山中からの石灰石搬出は北海道・上磯へとシフトし、大幅にその規模を縮小する事態となりました。 また、沿線の宅地化も急速に進んで貨物列車が旅客輸送に支障をきたすようになり、これらに連動する形で列車での石灰石輸送は中止される事となったのです。
それは 1998年8月13日。過去にお別れ列車の類を見送りに行ったという経験のあまりない私は、その日も特段行動を起こす予定はしていませんでした。 もちろん数ヶ月前からこの日の来るのはわかっており心残りな気持ちは持っていましたが、あまりにも日常に溶け込み過ぎていたその風景がある日を境になくなってしまう事が、実感としてわかなかったのです。 また日を追って沿線に繰り出して来る俄かファンの姿に、我ながら勝手ですが地元民の立場で少々辟易していたという気持ちも多少あったかも知れません。
しかしその時刻が近づくにつれ私は落ち着きを無くし、「ちょっと出て来る」と家人に言い残して結局いそいそと出掛けました。 車を走らせ急ぎ線路端に到着してみると、既にたくさんの人達がフェンスに沿って並んでいます。 報道陣やいわゆる鉄道マニアと見られる人々も多かったようですが、家族連れなど地元の住民も結構な数がお別れに来ているのが、この青梅線と石灰石列車の強い結びつきを感じさせてくれました。
やがて遠くで踏切の警報機が鳴り出し、電気機関車独特のブロア音と共にいつも見慣れた石灰石列車がやって来ました。 それは就職してこの地にやって来てから常に日常の中にあった風景、時代を経て機関車は茶色い ED16からブルーの EF64へと変わったものの、通勤電車の合間を縫って走るこの貨物列車の行列は、いつも黙々と車体を揺らしながら目の前を通過して行ったものです。 今日も普段と変わらない光景ですが、唯一つ違っているのは、機関車の前頭部にお別れのヘッドマークが取り付けられている事でした。
線路の両サイドから写真を撮ったり手を振ったりしている人々に見送られ、最後の石灰石列車はあっけなく目の前を駆け抜け、一陣の風と共に立川方面へと走り去って行きました。 そして翌日より青梅線の線路上から石灰石貨物列車の姿は消え、通勤電車だけが走るごく平凡な線区になってしまったのです。
参考