次は筑豊本線に乗るのだが、筑豊直方からJRの直方駅までは徒歩で10分くらいかかる微妙な距離。 門司港、くろがね線、楠橋駅に続いて本日4度目の炎天下歩きである。 覚悟はしていたが案の定、トボトボと歩いて駅に着く頃には汗で全身ぐっしょりになった。 有り難かったのは乗る予定である若松行きの白い電車が、発車20分以上も前なのに既にホームに入線して待っていてくれた事。 写真は降りる時でいいやと考えて冷房の効いたガラガラの車内に飛び込み、しばし扇子であおいで汗が引くのを待った。
そのうちに発車時刻となり、電車は静かに走り出す。 直方駅から筑豊本線の終着駅若松までは所要40分ほどだ。 途中の、鹿児島本線と交差する折尾駅は高架化されたばかりなのか、ピカピカのとても綺麗なホームだった。 事前に地図で見ていたのと全く違う状況に驚いたが、調べてみると、こちらも門司港駅と同時期の今年3月に竣工したらしい。 従来は開通時より鹿児島本線の下を交差するようにホームが設けられており、ここは日本初の立体交差駅だったとの事。 改良後は駅の前後で大きくルートを付け替え、鹿児島本線に沿わすような形になっている。
そこから先、地上に降りてしばらく走る線路は洞海湾に沿っているのだが、残念ながらほとんどの区間で車窓から海は望めない。 諦めてふと車内に目を移すと、隣に座った年配の男性が、やおら駅弁の包みを開いてむしゃむしゃと食べ始めるところだ。 ここはJRで最後まで普通客レが残っていた線だし、おそらくその後はキハ40系あたりが走っていてボックス席だったのだろうが、3ドアでロングシートとなった車内では非常に目立つ所業である。 車内中の注目を集めつつ完食して彼が包みをしまい終えるとほぼ同時に、終点の若松駅に到着となった。
ホームに降り、乗って来た電車を撮影している時に、違和感から初めて気がついた。 「あれ?架線がない!」筑豊本線は電化されているものとばかり思っていたが、折尾と若松の間はまだ非電化だったのだ。 してみると、乗り換えずに直通したこの電車は… そこまで頭を巡らしてようやく事態が飲み込めた。 これは以前ニュースで流れていた例の蓄電池車両、BEC819系なのだと。 だから、電化されている直方~折尾間は架線から集電して走り、その先、若松までの非電化区間は蓄電池で走行したという事か。 そう言えば折尾駅での停車時間が少々長めだなと感じたが、その間に走行方式の切り替えを行なっていたのだろう。 事前に調べていなかったので、ここで蓄電池車が使われているとは知らなかった。
無人の改札を抜け、駅の外へ出る。 昔は石炭の積出港として広大な操車場を持っていたというこの駅、その跡なのか、やたら広い駅前広場や駐車場が今は目立つばかりだ。 その片隅に保存(放置?)してある私の好きな形式の蒸気機関車9600形も、潮風のためか車体の錆が酷く、見るに堪えない哀しい姿だった。 洞海湾を望める桟橋あたりまで出てみると、すぐ向こうに対岸の戸畑地区、左手には若戸大橋の華麗な姿を眺める事が出来た。 我々の世代にとって若戸大橋は、幼児向けの絵本などにも描かれていた東洋一の大吊橋、当時の技術の粋を集めた最先端のブリッジだったのだ。
さて、ここから折り返しの列車で戻っても良いのだけど、若戸大橋のすぐ下に渡船の若戸航路があるので、それを利用して戸畑駅へと繋ぐ事にしよう。 若戸大橋も昭和62年までは歩行者が渡れたのだが、交通量が増えて後に4車線化する際に歩道は廃止されてしまった。 その橋を正面に見ながら歩いて行くと、左手には煉瓦造りの堂々たる建築、旧古河鉱業若松支店が現れる。 大正7年に竣工したこの建物、今はコミュニティホールとして利用されているとの事だ。 乗船場はそこからすぐで、待合室に入り券売機で100円の乗船券を購入した。 若戸航路は北九州市の運営で、概ね12~15分毎に船が出ている。 それでも次の便が来るのを7~8人が待っていたから、常時結構な数の利用者がいるのだろう。
建物の外で見ていると、向こう岸を船が出るのが見えた。 と思う間もなく、所要3分なのでグルリと弧を描いてすぐにこちらに接岸となる。 船は「くき丸」という、クリームとパステルグリーンの小さな可愛い船だ。 「くき」とは日本書紀に出て来る洞海湾の古名、くきのうみ(洞海)からとったもので、平成12年に就航する際に公募して付けられたそうだ。 下船する人達、なかには自転車を引いている人もいるが、それがひと段落すると「どうぞー」と係の女性から待合室に声がかかる。 船内に入ってから切符の写真を撮ろうと思っていたら、それは乗船口であっさり回収されてしまった。 ぞろぞろとみんなに続き、私も船の上へ。
船室の外壁には「船が傾くので入口付近に立ち止まらず…」との掲示がある。 それは昭和5年4月2日のこと。 渡船「第一わかと丸」が沈没事故を起こし、73名の犠牲者を出した。 若松の蛭子祭りから帰る客で満員の船は、出港した時から左舷に大きく傾いていたそうだ。 それが戸畑へ向けて航行中に波浪の影響で動揺してバランスを崩し、一瞬で転覆してしまったという。 この事故も一つの契機となり海底トンネル建設案が浮上、それが戦後になって若戸大橋という形で実現に至ったという事だ。
事前にそんな歴史も調べていたので少々緊張しながら乗り込んだが、船室内は明るく、とてもシンプルでコンパクトである。 現在は「くき丸」と別にもう一隻「第十八わかと丸」という船が就航しているが、そちらは総トン数で倍くらい大きい。 壁にはテレビがかかっているが、くつろいでそれを観ているほどの滞在時間はないだろう。 自転車もそのまま持ち込める船内は座席より床面の比率が高く、座らずに立ったままの地元客も多い。 乗船ドアが閉じられ出航、船窓から見える外の風景がグルグルと回るうち、心配する間もなく、すぐに戸畑側に着いてしまった。
船を降りると、乗船場の外から何やら大勢の掛け声が聞こえて来た。 建物を出てみると、神輿のような物を担ぐ男達が目の前の通りを今まさに通過して行くところ。 調べてみるとこれは、戸畑祇園大山笠の昼の部で幟山と言うらしい。 福岡の三大夏祭りの一つとされ、国の重要無形民俗文化財にも指定されているそうだ。 偶然巡り合わせた幸運に感謝しつつ、しばらくこの勇壮な祭りを堪能し、それから500mほど離れた戸畑駅へと向かう。 本日5度目の炎天下歩き、いや、若松駅からも歩いたから6度目か…。 お祭りの通って行った後の余韻が残る駅前付近は何となくホッとした雰囲気で、テントに法被姿の男衆が集まって振る舞い酒などを行なっている。 ようやく駅に着いたと思ったら入口は線路の向こう側で、蒸し暑く長い地下道を延々と潜ってようやく改札口へと達する事が出来た。