はじめに ~ 武蔵中央電鉄の生成過程 ~
かつて八王子の街中を走っていた路面電車については、このサイト開設当初に「八王子界隈の廃なもの」で取り上げたが、もはや何も残ってないだろうとの憶測で特に沿線探索は行なっていなかった。 ところが、その後教えていただいたり資料を読んだり、あるいはネット上で発見した情報等から、いくつかその面影や遺構が残っているという事実が判明した。 今回はそれらを参考にさせていただきつつ、今さらながらであるが改めてこの鉄道を追ってみたいと思う。 まずは探訪の前に一通り、その生い立ちなどから入ってみよう。
高尾山電気軌道 ~ 桑都八王子と高尾山への鉄道 ~
八王子は江戸時代後期以降、生糸や織物などの生産・集散地として栄え、またこれら絹製品を横浜方面の港へと運ぶ日本版シルクロード、絹の道の出発点であったというのはご存知の通り。 横浜鉄道はまさしくその貨物需要を期待して建設されたものであるし、いち早くこの地へ鉄路を延ばして来た甲武鉄道にとっても八王子は多摩地域の重要な都市であったと言えるだろう。 街は大横町から八幡町あたりをその中心部として栄え、そこから浅川(現在のJR高尾駅)までの間は甲州街道に沿った小集落が続いていた。 その西の外れ、旧街道を右へ分けた先の山域には高尾山があり、当時から信仰の山、そして観光地として多くの人を集めていたようだ。
その高尾山に鋼索鉄道(ケーブルカー)を敷設しようと計画した人々がいた。 その発起人代表が紅林七五郎、北多摩郡郷地村の出身でその後数々の鉄道経営に参画している人物だ。 郷地と聞いて五日市鉄道の駅名を思い浮かべる人もいるだろうが、もちろんこの鉄道にも関係している土地の有力者である。 紅林はこの鋼索鉄道の免許を取得して高尾索道という会社を興す。 またその麓まで客を運ぶための鉄道を計画し、浅川駅前~高尾橋間の特許取得を以って高尾山電気軌道を設立した。
省線の浅川駅とケーブルの山麓駅を結ぶという名目で計画された高尾山電軌だが、その後区間を延長申請し、甲州街道上を東進して八王子駅前まで至るという、八王子の市街電車へと変貌する。
この頃から既に大鉄道として発展させる思惑はあったようで、市内線と前後して八王子から大宮へ至る軌道線や、その途中の砂川から分岐して山手線の目白(後に高田町に変更)へ接続する支線(?)等も特許出願している。
- 関連年表 [▲非表示]
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高尾山電軌・八王子電鉄・武蔵中央電鉄 高尾索道・高尾登山鉄道 京王電軌・玉南電鉄 甲武鉄道・中央本線 明治22年 8月:甲武 立川~八王子 開通 明治34年 8月:官営 八王子~上野原 開通 明治39年 10月:甲武鉄道を国有化 大正10年 8月:清滝~高尾山、多摩村~川尻村、多摩村~西府村 免許
9月:高尾索道設立大正11年 1月:浅川駅前~高尾橋 特許取得※ 大正12年 1月:高尾山電気軌道設立
8月:八王子~西所沢~大宮、砂川~田無~目白の延長線特許出願大正13年 5月:延長線の所沢~大宮を2期工事とし、1期区間を八王子~東村山、砂川~高田町(高田馬場)に変更 大正14年 9月:八王子駅前~浅川村字川原ノ宿、八王子市横山町~東八王子駅前 特許取得 5月:高尾登山鉄道に社名変更 3月:玉南電気鉄道が府中~東八王子間を開業 大正15年
昭和元年4月:八王子電気鉄道に改称
6月:株主総会で藤山体制へ移行
9月:八王子~所沢 免許申請12月:京王電軌が玉南電鉄を合併 昭和2年 1月:所沢~大宮 免許申請
2月:明神町~横山村関戸、浅川村字原宿~横山村竜ヶ谷戸の特許申請
12月:東八王子駅前~所沢~大宮の延長線免許取得1月:清滝~高尾山 開通 2月:東浅川仮停車場開設 昭和3年 4月:大宮~与野~鳩ヶ谷~草加~流山町~柏、鳩ヶ谷~舎人村~西新井村~綾瀬村~北千住の免許申請
6月:八王子~所沢の経路を立川経由に変更昭和4年 7月:武蔵中央電気鉄道に事業譲渡
11月:浅川駅前~追分 開通
12月:追分~京王前(仮)開通昭和5年 3月:浅川~高尾橋 開通
10月:京王前(仮)~東八王子駅前 開通12月:立川~浅川 電化 昭和6年 3月:御陵線開通 昭和7年 4月:横山町~八王子駅前 開通 昭和13年 5月:八王子~横山車庫 廃止、京王電軌へ事業売却 5月:武蔵中央電鉄を買収 昭和14年 6月:横山車庫前~高尾橋を休止(のち廃止) 3月:豊田~浅川 複線化
4月:西八王子駅開設※軌道法による(主として)路面電車の営業認可を「特許」、鉄道の場合は免許(現在は「許可」)という
八王子電気鉄道 ~ 地域資本から藤山体制へ ~
大正末年に会社は八王子電気鉄道へと改称し、しかしその後資金繰りに行き詰まったのか、同年の株主総会で経営権は紅林の手を離れる事になった。 新しい経営陣の一人として藤山愛一郎が新取締役に就任し、またこの総会で動議として父親の藤山雷太を会社顧問に迎えている。 この藤山雷太は大日本製糖を中心とした財閥:藤山コンツェルンの創始者であり、また息子の愛一郎も父親の後継者として財閥を率い、後に政界にも進出して外相を務めるなどした大人物である。 当時は世界的な不況期を迎えつつありそれは製糖業界も同様で、藤山財閥としては経営多角化の必要に迫られていた。 この時代、地方鉄道法公布と都市の発展に寄与された私設鉄道ブームでもあり、そこに目をつけて電鉄事業に乗り出したものとみられる。
藤山体制となった八王子電鉄は八王子~大宮の延長線を軌道でなく鉄道線として改めて申請を行ない、昭和2年には免許を取得。
そしてこの年、市内線の方も、明神町~横山村関戸の北周りルートや、浅川村字原宿~横山村竜ヶ谷戸(御陵前)の支線等を特許申請している。
同年には高尾登山鉄道のケーブルが目出度く開業の運びとなり、軌道線の工事も順調に進んでいた。
翌昭和3年には、八王子~所沢間の延長線ルートを当初の砂川経由から国鉄立川駅に接続する形に変更した。
立川は中央・青梅線の通るジャンクションであり、また南武鉄道の開通も間近だったために、より多くの輸送量が見込めるとの判断があったものとされている。
ここまでは良く知られている話であるが、八王子電鉄はこれに先立ちこの年、大宮からさらに千葉県の柏へ向かう鉄道線とその途中の鳩ヶ谷から北千住に至る支線の申請も行なっている。
関東一円に路線を伸ばそうという大いなる野望が感じられるが、さすがにこれは計画が遠大過ぎて通らなかったようだ。
しかし、これだけの構想を次々と打ち出して来る経営陣だが、実際のところその計画に実現性はあったのだろうか。
資料に当時の資本金を同時期の他私鉄と比べた記述があったのでこれを表にしてみたのだが、八王子電鉄から武蔵中央電鉄へと増資された状況を見ると、あながち夢のまた夢とも言えない程度の資金力は持っていたようである。
武蔵中央電気鉄道 ~ 開通、そして… ~
さて実際の工事進捗に関してだが、昭和4年末になってようやく浅川駅前と京王前(仮駅)を結ぶ市内線が開通している。 それに先駆けて事業は武蔵中央電鉄へと譲渡されたが、この会社も社長は藤山雷太であり実質藤山体制に変化は無い。 昭和5年3月に浅川~高尾橋間が開通し、いよいよ当初の目的であったケーブルとの連携運輸がスタートする。 ところがそれも束の間、同年12月には省線の立川~浅川間が電化され、中央線に電車が走るようになってしまう。 加えて翌年には京王の御陵線までもが開通し、またバス路線の充実なども相まってこの区間の乗客は大半を奪われてしまう結果となった。 昭和7年には八王子駅前への軌道が完成したが、これも特効薬とはならなかったようだ。
その後も乗客が伸び悩むなか営業を続けたが、ついに昭和13年、武蔵中央電鉄は八王子~横山車庫間を廃止し、残った路線と共に競合する京王電軌へ買収される事となった。 京王では横山車庫~高尾橋間を八王子線(後に高尾線)として御陵線からの乗り継ぎという形で運用を試みたが、これも長続きせずに早くも翌年には営業休止してしまう。 こうして、八王子を基点とした大電鉄構想は、営業期間僅か10年という短命の路面電車でその幕を閉じた。 この年ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発し、昭和12年に始まった日中戦争と共に、時は世界を戦争の渦に巻き込んでゆく時代へと向かっていた。
参考:注意:
- 多摩のあゆみ 97号「特集:まぼろしの鉄道」 財団法人 たましん地域文化財団
- 鉄道ピクトリアル 2003年7月臨時増刊号「特集:京王電鉄」 鉄道図書刊行会
- 「多摩 幻の鉄道 廃線跡を行く」山田俊明著 のんぶる舎
- 各特許・免許線は筆者による推定路線図です。