~ 青梅線からの分岐部を考証 ~
この専用鉄道に関しては12年ほど前の記事で一度取り上げているが、青梅線から分岐する部分についてあまり深追いをしていなかったので、最近の状況を観察がてらこの正月に再訪してみた。 資料としては、当時のある読者の方から提供いただいた東青梅駅前付近の旧公図謄本が非常に役に立った。 何故なら、これを見ると青梅線からカーブして離れて行く専用鉄道の敷地と思しき地割りの境界線が、住宅地の中にくっきりと浮かんでいるのが分かるからだ。
この図を漫然と眺めながら私はずっと「何故駅の手前から分岐させたのだろう?」等と考えていた。 成木街道に沿って北上させるためには駅西側で青梅線から分岐させるのが自然な筈なのに、そこに描かれている鉄道曲線はそのずっと手前の駅東側あたりから分かれていたのだ。 これではわざわざ駅前の一等地を横断して行かなければならないし、駅構内での入換えにも支障が出るではないか、と不思議で仕方が無かった。 しかしちょっと調べてみれば答えは簡単、当時そこに駅は無く一面の畑地だったから なのだ。
~ 青梅鉄道と師岡聯絡所 ~
青梅線の前身である青梅鉄道が立川~青梅間を開業させたのは1894(明治27)年、その時の中間駅は拝島、福生、羽村、小作のみであった。 その後に東青梅が停留場として追加されたのは1932(昭和7)年になってからなので、黒沢の専用鉄道が存在していた時期である 1918(大正7)年~1922(大正11)年の間は小作~青梅間に旅客駅は一つも無かったのだ。 そう、旅客駅は…
というのは、立川起点約16.7kmの位置にかつて師岡聯絡所なるものが開設されていたという事実がある。 そしてその開廃時期を見るに、
- 1917(大正 6)年 10月5日
- :青梅鉄道が小作~青梅間に師岡聯絡所を開設
- 1922(大正11)年 6月23日
- :青梅鉄道、師岡聯絡所を廃止
どうだろう、専用鉄道の存在期間と見事に符合するではないか。 おそらく、この聯絡所が専用鉄道分岐部の信号場的な役割りをしていたのだろう。 現在の東青梅駅が立川起点約17.2kmなので、場所的にはその500m程手前、という事は青梅街道千ヶ瀬バイパスの陸橋上付近に師岡聯絡所は存在していたようだ(もちろん当時青梅街道はここを通っていない)。 そう思うと線路に隣接した青梅市役所の駐車場あたり、当時の貨物ヤードの名残りのように見えない事もない… 何て事を妄想してみたりもする。