柴怒田(しばんた) > 須走(すばしり)
柴怒田を過ぎると勾配はさらに急になって来る。 なにしろ須走まで標高差で約230mを登らねばならないのだ。 砂利道を見つめながらエッチラオッチラとひたすらペダルを踏み締めて登って行くと、晩秋とは言え小春日和の今日は暑い位で額から徐々に汗が滲んで来るのがわかる。 気がつくと、坂道を下って来た農作業の軽トラックが大分手前の道が広くなっている所で停車し、こちらが通過するのを待っていてくれた。 すれ違いざま乗っているご夫婦に手を挙げて合図し、ありがたく列車交換をさせてもらう。
ひとしきり登ると、道は森閑とした樹林の中でキリンの大きな工場敷地に突き当たるので、その横を裏手へと迂回する事になる。 もちろん当時の馬鉄はそのまま直進していたが、当然ながら見学にでも申し込まない限り中へは入れてもらえないだろう。 と思って調べてみたら、ここは蒸溜所になっているという事で少々美味しい体験も出来るらしい。 もっとも敷地内に入れたとしても見学コース外には出られないだろうし、馬鉄のルート跡に何か残っているなんて事もある筈がない。
工場裏手で敷地から出て来た軌道跡は、その先の沢筋へと向かって草薮の中に消えている。 自転車に跨ったままエイャっと突進してみたが、たちまちぬかるみと雑草の茂みに行く手を阻止され、ほうほうの体で引き返す羽目となった。 体中に色んな種をひっつけられてしまい、走りながらそれをむしってはあちこちに撒いて来たので植物達の思う壺だ。 仕方なく工場のフェンスに沿ってもう少し登り再び軌道跡に合流したが、この区間を通過する人は殆ど無く廃道化がかなり進んでいるようだ。 ちなみにこの沢筋あたりは九合(くご)と呼ばれ、馬の水飲み場にもなっていたとの事。 さすがに生きている馬が機関車だっただけに、その線路は水の確保出来る場所を選んでルート取りされていたというのが馬鉄らしい。
工場の先は森の中の心細い道を通過。 落葉に埋もれてすっかり冬支度だが、ザクザクとそれらを掻き分けながら進むと馬車鉄道の頃が偲ばれる。 ようやく人里に出て来てホッとしたのも束の間、今度は目の前にゴルフ場の目に鮮やかなグリーンが立ちはだかる。 線路跡はこの中に消えて行くが、ちょうどその手前あたりに水土野(みどの)の停留所があったとの事。 水土野は後から追加された停留所だが、付近は山中の小さな集落になっているので住民の要望により開設されたのかも知れない。 ゴルフ場を迂回してその先へとまわると、クラブハウス前付近から斜めに飛び出して来た馬鉄跡は海苔川を渡り、別荘地の方に向かう急登の細道へと続いている。
その別荘地に迷い込んでしまい軌道跡をロストして一部のトレースは果たせなかったが、何れにしろこのあたりは現在の直線状の道に対し、当時の軌道は右へ左へとつづら折りの屈曲を繰り返していた。 それはもちろん勾配の関係でなのだが、御殿場方面へと坂を下って行く列車は馬を客車の後尾に繋ぎ、御者の手ブレーキでスピードを制御したそうだ。 特にカーブの連続するこの区間では脱線も多発し、客車が転覆して怪我人が出た事故もあったらしい。 なかなかスリルのある乗り物… いやいや、昔の人の旅行は命がけであったのだ。
御殿場・須走間の馬車鉄道は数々転覆し、乗客の危険なる事は前にも記せし所なるが、去る十三日も須走を出発して御殿場に至る途中にて転覆し、二、三名は負傷せし向きもありしが、直ちに手当をなせしため、幸いに生命に別条なかりし由なるが、馭者は爾来注意せらるべし。 (明治32年8月8日:静岡民友新聞)
別荘地の静かな道路を進んで行く。 富士山にだいぶ近づいた筈だが、木立ちに遮られてその山容は見えない。 立派な舗装路のわりに交通量は極端に少ないので安心して走れるが、場所がら時々追い越して行く車が高級車ばかりなのがさすがだと思う。 と、急に目の前が開け、観光バスや車の渋滞している大きな交差点にストンと飛び出した。 その向こうにはかなり大きくなった富士山がその白い頂を見せている。 ここは国道138号線須走南の信号の所で、箱根裏街道と東富士五湖道路インター入口の分岐点にあたるポイント。 この喧騒では当時の面影を探すのは無理そうだが、馬鉄はこの街道に併走するように須走の町中へと登って行った。 富士登山へと向かう乗客はそろそろ下車準備を始めた頃だろう。