御殿場馬車鉄道について
1889(明治22)年2月1日、富士山を間近に望む御殿場の街外れ新橋(にいはし)地区に東海道線の御殿場停車場が設けられ、東京や静岡方面へと向かう汽車が走り始めました。 当時、富士登山の街として賑わっていた御殿場は、これにより周辺地域への貨物集散地としてさらなる発展をみる事になります。
やがてそんな状況に注目した地域の有力者が中心となり、御殿場駅と登山口である須走の間を結ぶ馬車鉄道を敷設する事となりました。 これが今回ご紹介する御殿場馬車鉄道、富士山の麓に広がる裾野をお馬に引かれてポクポクと登って行くこの鉄路には、あの竹久夢二も乗ったというのです。 年間で乗客4万7千人を運び、特に登山客の増える7~8月は通常に比べて2倍近い人数が利用したそうです。 客車15台、貨車65台も所有し、米穀類、魚介類など貨物を1万トン以上運んだ年もあったとの事。 ではまずその歴史について、年表を追って見てみましょう。
御殿場馬車鉄道 | 官設鉄道、国鉄、他 |
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※「ごてんばの古道」(御殿場市立図書館古文書を読む会編)より |
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御殿場馬車鉄道は当初予定の須走までを開通させた後、山中湖側から延びて来た都留馬車鉄道と接続するため明治35年に籠坂峠までの区間を延長しています。 この都留馬車鉄道とその後開通する富士馬車鉄道を合わせ、御殿場から大月まで至る延長約55kmの馬車鉄道ネットワークが一時期存在した事になります。 富士登山客のみならず、東海道沿線と甲信地方を結ぶ貨客輸送にも貢献していたわけですね。
ところが、東京方面から順次開通して来た中央本線が大月まで達すると事態は一変、登山客も荷物も便利なそちらのルートに流れてしまい、御殿場馬車鉄道は急速にその地位を失いました。 運営も野中至(富士山頂に観測所を建設した気象学者)氏の個人経営に移ったりまた御殿場有志による会社に戻されたりしますが、徐々に路線は短縮されてゆきます。 最後は御殿場町内を若干延長して地域交通としての道も模索したようですが、結局しばらくして運転は休止され昭和4年1月に全線廃止、会社は解散となりました。
沿線探訪レポート
新橋(にいはし) > 御殿場上町(ごてんばかみちょう)
訪れたのは晩秋のころ霜月、好天に恵まれた週末の某日。 小田急から直通するロマンスカー「あさぎり1号」からホームに降り階段を上る。 改札を抜ける時そばに立っていた駅員さんが、私の大荷物を見て切符を代わりに自動改札に通してくれたのがちょっと嬉しかった。 いつも輪行袋を右肩に担ぐので、改札を抜ける時は難儀してしまうのだ。 特急で贅沢したおかげ様で早暁まだ9時前という時間に御殿場へ着いたが、既に駅前にはここからハイキングやゴルフへ向かうと思しき人達がたくさん車待ちをしている。 3連休だから帰りの電車も混むだろうという事で、今日は早めにやっつけてしまおうと考えながら自転車を組み立てた。
早速サドルに跨って駅正面の通りから探りを入れ始める。 駅を背に少し進めばすぐ右手が馬鉄の新橋停留所のあった場所だが、もちろん今では何の痕跡も無い。 明治35年の時刻表によれば、午前5時を始発にここから御殿場上町まで日に16往復、須走までが2往復、籠坂までが10往復、また須走発籠坂行が2本あった。 客車は幅約1.5m、長さ約2.1mで10~12人掛け、これを一頭立ての馬で引いたという。 停留所跡地は現在駐車場となっていて何も無いが、その裏手からいかにも馬車道という風情のゆるやかな曲線で紡がれた小路が始まっている。 この道に面して軒を連ねる家々も、そう思って走りながら眺めていると何だか歴史を秘めているような気がして来るから不思議なものだ。
馬車道を進んで行くと車の行き交う箱根裏街道と交差した先、右手にはその名も「馬車道公園」というのがあって当時を想起させてくれる。 大型スーパーの裏手を抜け足柄街道に斜めに合流すると、そこは至って質素な作りの御殿場市役所。 前庭には大きな碑があり、馬車鉄道株式会社の取締役だったこの地の有力者、勝亦国臣氏の名前が刻んである。 勝亦氏は野中氏からの馬車鉄道買収に一役買った他、大正6年には御殿場町長の任にも就いている。
足柄バイパスの交差点を越えると左手には二枚橋浅間神社があり、その門前に再び石碑が。 こちらは御殿場馬車鉄道の創立に奔走し、初代取締役支配人に就任した勝又勝美氏の功績を讃えるものだ。 勝又氏は御厨町(御殿場町の旧名)の初代町長を務めた人物でもある。 いっぽう道路右手にはJA御殿場支店が見えるが、この隣の敷地あたりにその昔「福田屋」という旅館があり、かつてかの竹久夢二が逗留していた事もあるという。 夢二はその時点で妻たまきと協議離婚していたが、この地で彼女と合流し、ここから須走まで馬鉄に乗り富士登山へと向かった。 以下の記述からすると手を挙げれば停留所以外でも客車は止まってくれ、そこから乗車する事も出来たようだ。
馬車は二人の前に止まった。 馬車の窓より宿の婆に「おしずかにお山をなさいませ」と言われて、今更らのよふに新しい旅愁を身に覚える。 われ等の馬車は、屋根低き御厨の町を過ぎて霧深き林へと入ってゆく。(夢二画集 旅の巻「富士へ」より)
そんな夢二の頃を想像しながら道ばたで写真を撮っていたら、「おじさーん、どいてぇー」、叫びながら小さな男の子が私をかすめて自転車で疾走していった。 馬車鉄道よりはかなり速そうだ。 さて、道路左手に御殿場小学校の入口を見てさらに少々進むと、目の前に何やら歴史のありそうな商家建築が見えて来る。 このあたりに通称「カネマル」と呼ばれる元商店があって、昔は造り酒屋を営んでいたとの事。 店先には馬鉄から貨物運搬のための引込線が敷かれていたそうだが、ここがそのお宅だろうか。
上町の薬局の角で線路は足柄街道を左に離れ、いよいよ富士山へと対峙し緩い坂道を進んで行く。 が、ここでちょっと寄り道をして、少しの間そのまま足柄街道を直進してみよう。 馬車鉄道がその末期に須走方面への鉄路を廃止した後、御殿場町内に延ばした別路線の終点だった「窪町坂」の停留所がもう一つ先の信号付近になるのだ。 その名の通り若干窪地になった地形へと向けて坂が下り出す場所、信号角の現在はお豆腐屋さんになっているあたりに駅や車庫があったという事だ。 この付近が往時の御殿場の中心街だったのだろう。 そんな街中のコンビニで早々とお昼の買い出しを済ませ、これから始まる郊外の登坂に備える。 どこか富士山の見晴らしが良い場所ででもパクつこうかと思って仕入れたそのお握りは、ご飯の先からコニーデ型(と言うよりトロイデかな?)断面の焼き鮭が美味しそうにせり出していた。