須走(すばしり) > 籠坂(かごさか)
左手に東富士五湖道路の高架橋を見上げながら逆S字カーブを切り、須走の街が広がる台地上へと登り着く。 ここは須走浅間神社(正式には東口本宮冨士浅間神社)の門前に栄えた街、その起源は延暦21(802)年に富士山東麓で起きた噴火を鎮めるためにこの地で祭礼が行なわれた事に由来する。 時代変わって、宝永4(1707)年に発生した大噴火では降灰3mにも及び壊滅的な被害を受けたそうだが、その復興にあたっては幕府も積極的に援助を行なった。 須走は富士登山口としての役割りの他に、籠坂峠を越えて駿河と甲斐の国を結ぶ街道の宿場町として重要な場所だった為である。
さて須走の停留所が置かれていたのは消防署の前あたりとの事だが、そこはどちらかというと町の中心部から少し外れた静かな場所だ。 ここから須走本町の信号を左折し町の本通りを進めば、行く手には浅間神社の小ぢんまりとした鳥居が見えて来る。 須走停留所は後に浅間神社前と改名されているようなので、籠坂峠への路線延長後にはより繁華なこちらへ移動して来たのかも知れない。 その目の前で左へクランクして須走交差点に出ると、いよいよここから籠坂峠へと向けて最後の急登が始まる。 私もコンビニ前で一旦小休止、ボトルから給水して坂道に備えよう。
ところでこれから走る須走~籠坂間の延伸にあたり、御殿場馬車鉄道は栢の木~須走間の複線だった線路の片側を外して転用したという。 その延長方法も特異だが、そもそも新橋~須走間が当初は複線で開業していたというのが意外で驚かされる。 須走から籠坂までの距離は約7.2kmだが標高差302mもあるので、軟弱な自転車乗りにとっては少々気が重い区間でもある。
須走交差点の信号からしばらくゆるい坂を登ると、左に須走口の富士登山道を分けるT字路に出る。 このあたりでは馬鉄は現在の国道より少し東側にルートをとっていたようだ。 非力なエンジンの自転車をブンブンと追い越して行く車列に脅かされながら、国道をタラタラと登って行く。 左手にゴルフ場の芝生を見下ろしつつ車道は谷あいのどん詰まりまで行き、そこで急カーブして左手の山裾へと取り付く。 そのカーブの最奥には真っ直ぐ谷を登る旧道らしき道があり、分岐点の道標石柱には「鎌倉往還」と書かれていた。
旧版地図だと馬車鉄道はほぼ現在の車道に沿って峠までジグザグに登って行くように記載されているのだが、開通当時はこの谷(うぐいす谷)をワイヤーで客車を巻き上げ直登していた、と私の見た資料には記述されていた。 一種のインクラインだろうか、貨物はそれで運べるがさすがに乗客達はそうもいかず、この区間だけ歩いて登り降りしたのだと言う。 とすると馬の方はここに留め置いたという事か、その後時代により、上まで葛折れの道を登らせた時期もあったのかも知れない。
私の自転車も大人しく現在の道路を登るしかないだろう。 あるいは馬鉄のルートだった為かも知れないが、幸い籠坂峠への登りは然程急坂が続くわけでもなく、車をやり過ごしながら黙々と自転車を漕いでいさえすればいつかは辿りつく。 大分時間がかかってしまったが、ワイヤで巻き上げたであろうあたりの地点を過ぎ、何とか峠の切り通しへと到達したのはお昼も過ぎた午後1時頃。
峠は鉄路を通す為か尾根を切り落とした鞍部に位置するため、あまり展望がきかないのは残念だった。 最後の停留所となる籠坂は都留馬車鉄道の施設を間借りしたもので、峠の国道から左へ道が分岐する所、ここで乗客達は客車を乗り換えて吉田方面へと下っていったのだ。 しばらく息を整えた後、山中湖へと向けて別荘地の中の穏やかなワインディングロードを下りだす。 都留馬車鉄道の廃線跡でもあるこの道は、「馬車道通り」と名付けられていた。
というわけでこの日の探索を終え、山中湖から忍野、富士吉田を経て富士急行の河口湖駅から輪行で帰途に就いた。 あわよくばついでに都留・富士馬車鉄道の跡も等と思っていたのだけれど、ここまでで思いのほか時間がかかり残念ながらタイムリミットとなってしまった。 甘く見ていたが馬鉄の廃線探索侮るべからず、一馬力の機関車はそれなりのパワーがあるのだ。 心地よい疲労感に揺すぶられ、乗車した大宮行きの183系ホリデー快速車中ですぐ睡魔に襲われたのは言うまでもない。 途中の忍野で逆光富士を仰ぎ見ながら食べた遅い昼食、お握りの味を夢の中で反芻しながら…。
参考:
- 「ごてんばの古道」御殿場市立図書館古文書を読む会 編集発行
- 「鉄道廃線跡を歩くIV」宮脇俊三 編著