Banner   西村鉄翁 (2006.3)

はじめに

 親が若かった頃、かつて飯能から入間川の間に鉄道馬車が存在した話を聞いていたが、当時は特別に気に止めることも無く、詳しいことなどは確かめないまますごし、定年退職後時間にゆとりが出来、詳しく知りたいと思い始めたが、その頃は親の記憶もおぼろげになり、確かなものは不明なままとなった。
 インターネット上の資料を求めていくつかのサイトを当たってみたが、求めるものに行き当たらず、わずかに、入間川・青梅間の「中武馬車鉄道」に関する記事が目にとまったのみであった。
 そこで不十分ながらあらためて資料収集し、得られたものが以下のレポートである。
 本題に入る前に、明治期の埼玉における鉄道事情を略記して、馬車鉄道の生い立ちを見たい。

  • 1883年(明治16)7月 日本鉄道によって上野・熊谷間が仮営業を開始したのが最初で1年後には、高崎まで開通した。
  • 1887年(明治22)4月になり、甲武鉄道(現在の中央線)新宿-立川間が開通。
  • 1894年(明治27)11月 青梅鉄道の手により立川-青梅間が開通。
  • 同年12月21日に川越鉄道(当初は河越鉄道と書いたようである)によって、国分寺-東村山間開通。[現西武鉄道国分寺線]
  • 翌28年3月21日には川越まで開通。
  • 1901年(明治34)10月7日上武鉄道(現秩父鉄道)熊谷-寄居間開通と続く。

 川越鉄道の開通により、飯能地方からは入間川(現狭山市駅)に出て、国分寺経由で甲武鉄道(現JR中央線)のコースをとると東京との間が飛躍的に狭まった。
 飯能からストレートに東京へ出たいと願う気持ちは強かったが、なにしろ先立つものは 金(資本)であり、それが実現するのは1915年(大正4)の、武蔵野鉄道(現西武鉄道)の開通まで、20年間待たねばならなかった。[武蔵野鉄道の開通に至るまでの経緯は、飯能市図書館蔵書の「飯能市史」ほか何種かがあるので、ここでは略す。]
 この、川越鉄道開通から武蔵野鉄道開通に至る間の、入間川地区と飯能地区を結ぶ交通機関として、「入間馬車鉄道」が存在したものである。
 前述の「飯能市史」では、この歴史がわずか11行の記述(通史編)で、「この時期にあった」ことのみである。
 馬車はどの道を通って、駅[停留所か]はどこにあったのか、どんな車両を用いたのか等肉付けとなる情報が知りたくて追跡してみた。

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入間馬車鉄道の客車
(狭山市立博物館に展示のレプリカ)

 いま、狭山市博物館には、この入間馬車鉄道の車両(レプリカ)が馬と御者を含めて展示されており、また「狭山市史」では資料を含めると70ページ近い記述が残されている。この違いは、狭山市史の編集を担当した方のなかに、馬車鉄道を経営した重役の子孫が居られたことが大きい様であるが、それにしても力量の違いは覆うべくもない。
 更に、この市史の細部をカバーする読み物として、「万造じいさんの馬車鉄夜ばなし」と題する、当時の御者を勤めた人への聞き書きが出版されている。
 また、「新編埼玉県史(近代現代編3)」においても、前記「狭山市史」には及ばないが、各種資料をそろえている。
 そう云う訳で、以下の記述の年月に関しては狭山市史に拠ることが主になるが、全て正確かどうかの考証は得られていない。

1  馬車鉄道とは

 鉄道とはレールの上を動力を用いた車両が走り、貨物あるいは人を運送する仕組みであり、動力源として古くは主に蒸気機関、明治後期には電気による動力が、大正期にはガソリンエンジン、昭和初期からはジーゼルエンジンと拡大してゆく。何を動力源とするかは、運転回数に対してコストが見合うか否か、維持管理が容易か否か等の観点から選定されている。
 牛馬(速度の観点からは馬が主)が動力源として、明治大正期に利用されたのは、自動車産業がわが国では生まれておらず、重量ものの運搬には牛車や馬車の利用が一般的であり、手近に得られること、当時の入手コストが低廉であったこと等の理由が考えられる。
 世界最初の鉄道といわれるイギリスのストックトン・ダーリントン鉄道においても、1833年まで乗合馬車に似たものが、蒸気機関車による列車の合間にレールの上を走っていたとされており(講談社刊、世界の博物館による)馬車鉄道は、わが国だけのものではなかった。

Photo
海外の馬車鉄道
(スイス*ルッエルンの交通博物館に展示のもの)

 なお、牛馬以外に人力を使ったものが全国で15例ほど有る。埼玉県内には無かったが、寅さんで有名な柴又帝釈天へ参詣の道として、金町・柴又間に「帝釈人車軌道」が明治32年から大正2年まであった。
 馬車鉄道として最初の営業は、東京において1882年(明治15)に東京馬車鉄道が新橋・日本橋間を開業し、その後浅草雷門まで延長している。 (それ以前は乗合馬車で、1872年(明治5)鉄道開通と同時に営業されていた。)
 翌1883年には日本鉄道が上野-熊谷間を開業すると、新橋、上野のターミナルを連結する交通機関として、重要な意味を持つにいたった。
 1897年(明治30年)1月には新橋・品川間も開通し、後年の東京市電となる線路網が順次作られていった。
 馬車鉄道の軌道(線路)は道路に敷かれ、残された絵図によれば東京においては馬2頭挽きで、客車には30人程度を乗せた様である。なお、当時の人々は「鉄道馬車」とひっくり返しの呼び方をしており、飯能地方でも同様の呼び方であった。
 1895年(明治28)1月31日 わが国最初の電車が京都市で営業運転を開始し、続いて名古屋電気鉄道、大師電気鉄道(現京浜急行)とつづき、東京では1903年(明治36)8月22日東京電車鉄道が、品川・新橋間に市内電車の運転を開始した。東京馬車鉄道は、その前1901年に社名を「東京電気鉄道」に改称しており、こうして「馬のない馬車」馬力から電気へと、時代は進んだ。

2  入間馬車鉄道の誕生

 川越鉄道の開通により、飯能地方(名栗、吾野谷津を含めて)から東京へ出る商人等が、入間川(現狭山市駅)経由で鉄道利用するものと見た、機を見るに敏なこの地方の資産家達は、ここに鉄道を作れば地域の発展とともに利益が得られると読んだのであろう。
 狭山市史によれば、設立の中心人物である清水宗徳氏は、「その大目的は秩父の富源を開く」ことにあると語っていたとし、入間川地域並びに飯能地域の地場産業の振興を目したようである。
 1893年(明治26)水富村の清水宗徳氏が入間川・飯能間の馬車鉄道敷設免許の申請をおこない、翌年特許を得た。しかし、入間川駅前から市街地に出る道路の開削工事のほかは、積極的な建設が進行していない。それが原因かどうかは明らかでないが、このあと、次々に新たな鉄道敷設等の出願があり、実現までに6年を費やした。以下はその経過である。
 1894年(明治27)には「飯能鉄道」敷設の計画が、豊岡町の繁田武平、飯能町の小能正三、入間川町の青木左平治氏ら9名によって出願された。経路は、飯能町--精明村−元加治村−豊岡町−入間川町と馬車鉄道の計画に近似していた。前者の馬車鉄道と後者の飯能鉄道では、起業計画の顔ぶれの地盤が異なっている点が目に付く。なお、資本金は16万円とした。
 この鉄道計画を見て、馬車鉄道も1996年(明治29)9月に電気鉄道に転換の出願を行った。 しかし、飯能地方には電気の供給が未だ無く(電気が通ったのは大正5年)、小岩井地区に水力発電所を設けてそれに拠る案が検討されたが、名栗川の水量が不足で取り止めとなった。これには、筏流しに支障が出るので取り止めたとの説もあるが、飯能町議会は条件付で許諾している。後にこの転換計画は取下げした。
 飯能鉄道の計画も認可されなかった。これは、明治政府の鉄道政策(当時は東京と地方を縦貫する鉄道を優先。)に合致しないことと、発起人たちの経済基盤の弱体が理由とみられる。
 1998年(明治31)になると、今度は水富村の山崎真穂氏を中心にして再度「電気鉄道敷設特許願」が出された。路線は馬車鉄道と同じで、電力は飯能町久須美に水力発電所を新設する計画であった。この出願も認可されなかったが、この決定が出るまで、馬車鉄道の工事は中止された。
 なお、山崎真穂氏は後に入間馬車鉄道の経営に参画している。
 1899年(明治32)になると、清水氏が持つ馬車鉄道敷設の特許権及び入間川の渡船権の譲受を前提とする、新しい会社設立の計画が具体化した。同年1月22日に入間川飯能間馬車鉄道創立発起人会が開かれ、柏原村の増田忠順(入間銀行頭取、創立委員長)、飯能町の小能正三、入間川町の小澤吉之助氏らを創立委員に選出して発足した。
 1月30日には譲渡契約が行われ、2月末には内務省の認可もおりて、3月1日には「入間馬車鉄道株式会社」の設立総会が行われ、社長には増田忠順氏を選出した。
 かくしてこの年(明治32)4月から工事は本格的に行われ、開通式は2年後の1901年(明治34)5月10日であった。
 馬車鉄道の開通1年後に行われた定期総会で、建設工事に要した費用をめぐって紛争事件が発生し、その後に行われた株主総会も紛糾して、新社長に清水宗徳氏を選出した。この紛争の経緯等は狭山市史が詳説しているので、ここでは省略するが、会社経営(財務)の上では後々まで影響を受けたようである。
 始めの構想から開通までに曲折があったので、この間の動きを分かりやすくするため、年表形式にまとめてみた。

別表 1   入間馬車鉄道開通までの動き
西暦明治月・日記    事記事の補足
1893264月川越鉄道の工事が本格化する


4月水富村の清水宗徳が「入間馬車鉄道」の敷設を出願した
1894273.28同上の特許がおりる


8.20"「飯能鉄道」敷設の出願する
★ 認可されなかった"
飯能町・豊岡町の有力者を中心に企画された
1895283.21川越鉄道が全線開通
1896299.11"入間馬車鉄道は電気鉄道に変更の出願する
★ 後にこの出願を取り消した"
併せて発電所を久須美に設置の出願
1898312月"水富村の山崎真穂ら「電気鉄道敷設特許願い」を出願した
★ 認可されなかった"
この出願により、入間馬車鉄道の敷設工事は中止された
1899321.22柏原村の増田忠順、飯能町の小能正三、入間川町の小澤吉之助らが、入間川・飯能間馬車鉄道会社の創立、発起人会を開催清水宗徳が有する馬車鉄道の特許権及び入間川渡船権を買い取ることを前提とする


1.30清水が有する馬車鉄道特許権等の譲受の契約を行う


2.28上記の手続きが認可される


3.1「入間馬車鉄道株式会社」発起人総会の開催


3.9上記会社の発起認可申請書を提出した


4.11☆ 発起認可書が下付される


5.14「入間馬車鉄道株式会社」創業総会を開催し、役員を選出社長 増田忠順


6.21上記株式会社の設立が認可される
1900335.15内務大臣より新「命令書」が下付される公道上に軌道を設置する際の要件等を定めている
1901345.4開業免許が下付される


5.10開業式を挙行した

 軌道(線路)は入間川町―水富村―元加治村―精明村―飯能町を通り、全長6マイル24チェーン(約10.13キロメートル)線路幅(内法)は2フイート6インチ[762ミリメートル]規格で、入間川駅前をスタートし、市街地に出る坂を下る部分は既設道路では傾斜が急なため新しく道路を独自に開削した。その他の部分は、既設道路(当時の県道及び町村道)を整備して敷設し、入間川を渡る箇所には専用の橋を 現在の富士見橋あたりに、丸太を組んで架けた。
 停車場は入間川から順に、諏訪下、河原宿、広瀬、根岸、笹井、八木、野田、岩沢、双柳、飯能となっている。[別図1]
 ただし、明治34年5月に出された広告では、停留所名は入間川-入間橋-根岸-笹井-六道-飯能となっているという。

別図 1
Map
国土地理院発行1/5万地形図
「川越」昭和16年 に加筆

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