3 運用の概要
開業時には客車6両貨車8両を設備して、1日15往復程度の運行とし、概ね川越鉄道の発着に合わせたものとした。(明治37年11月現在の運転時刻は別表2の通り) 所要時間は、片道およそ1時間15分。後に停車場の増設後は、5分程度増加した模様である。
ちなみに、現在ほぼ同じ区間を運行しているバスの場合、交通渋滞無しで、およそ30分要しており、当時の時間感覚から見ると馬車鉄道はかなり早かったものと推測する。
使用した客車は1頭挽き、およそ10人〜15人乗りであった。ただし、狭山博物館にあるレプリカの馬車を見るかぎり、(現在の感覚によれば)荷物を持たず手ぶらであっても、大人だと12人が限度と思える。
別表 2
入間馬車鉄道時刻表
明治37年
「入間市史」近代史料編@より作成
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乗務員は御者と車掌各1名で、入間川の架橋を渡るときは、車掌が降りて馬の轡とり、暴走に備えたという。また、急な登り坂では、車掌が馬車から降りて後押しも行ったという。
線路は単線で、途中諏訪下、広瀬、根岸、笹井、そして野田の5箇所に行き違いの設備を付けた。(この項については史料が少なくて確証が得られていない。)
後には運行回数が増え菅原、岩沢、および前田に交換場を増設した。入間川と飯能では、折り返し方向転換のための、ループ線を設けていた様である。
なお、入間川〜諏訪下間の線路は入間馬車鉄道の所有で.あるが、同時期に営業した中武馬車鉄道(入間〜青梅間の営業)と共用していた。繋引の馬については、入間川、八木(笹井か?)および飯能に厩舎を設けて、そこで付け替えを行った。営業開始時には、馬22頭であったが、明治42年8月の調書によれば18頭保有となっており、この数で1日平均15往復運行している。
運賃は、開業時には入間川--飯能間が15銭 (後には20銭となる)で、区間利用の料金設定もあった。1便あたりの乗客数は平均10人程度であった。
ちなみに、当時の鉄道運賃は3等で入間川--国分寺が19銭、国分寺‐飯田町が25銭であった。
4 飯能地域の駅(停車場)のこと
入間馬車鉄道での、お客の乗降場所の呼び方は「駅」ではなく、「停車場」(ていしゃば)であったようである。建物といえるものは、入間川と飯能だけで、諏訪下、広瀬、笹井、野田、および双柳には小屋程度の待合室を設けたという。
この停車場が設けられた位置については、狭山市史のなかでは触れておらず、手がかりとなるのは「万造じいさんの馬車鉄夜ばなし」のみで、万造じいさんの語りから筆者が手元にある昭和16年発行の5万分の1地図上に推定で位置取りしたものである。(図1)一般の鉄道の場合は、何がしかの遺構が残されているが、道路上に敷設されたものでは、なんともならない。
- 「飯能停車場」は、現在の飯能駅北口から延びる道路と、銀座通りが交差するあたりで、事務所と停車場になっていた。その西側に乗務員用の八軒長屋および厩舎があったという。
現在の銀座通りが「出口通り」と呼ばれ、停車場の置かれたあたりは、通りのはずれに位置しており、「出口」と呼ばれていた。付帯設備の厩舎等は出口通りの南側に置かれたものと推測される。
飯能青年会議所が昭和58年5月に発行の、「はんなーら別冊」に「大正4年頃の飯能町市街地略図」と題した新井 保氏が作成した地図(今風に言えば住宅地図)が見つかり、それによれば、飯能駅から見て銀座通り左角から(現在さつき濃茶店)1軒となりが「入間川鉄道馬車発着所」とある。向かい側は山川理髪店で、現在も同じ場所にある。厩舎等の場所は記載が無いので推測になるが、現在の間野電気店の裏側にあたる空き地に置かれたと考えるのが順当と思われる。
なお、原市場・名栗方面への「ガタクリ馬車」の発着場所は、駅前通りの右側角(現在佐々木宝石店)の位置にある。
※注記 飯能駅(北口)前通りの道幅は、現在歩道を含めて約10メートルあるが、昭和40年頃に拡張されたもので、それ以前は約7メートルで、前記の場所の説明は若干のズレがあります。
飯能停車場跡 写真中央の電柱の先の空き地が、馬車鉄道の発着所(待合室)。 なお、カメラの位置にはガタ馬車(名栗方面への馬車)の発着所があった。
- 「前田」は現在の飯能郵便局前であり、利用者の便ではなく、交換場の目的で後から作られたと思はれる。何故なら、始点の飯能からわずか400bしかない。
前田停車場跡
- 「双柳」は現渋谷自動車のおよそ80b東、島田自転車店の前あたりで旧道沿い、双柳の宿からの道との交差点あたり。
双柳停車場跡
- 「岩沢」は滝坂を登りきったあたりで、当時は一面広い原と畑だったようである。大雨が降ると、排水設備が何も無いので野水となり、道も畑も区別がつかない状態でひどかったという。
岩沢停車場跡
明治末ころに御者を務めた「桜井万造氏」の回顧談によれば、入間川、飯能の両端を除くと、広瀬が一番繁華で、笹井、野田がそれに次ぐ賑わいを見せ、その他の停車場では、「誰も乗り手まにも、ありゃあしねえよ。」(乗る人は誰も居なかったよ)とのことである。
飯能地方からの主な利用客は、(東京へ仕入れに行く大手の) 魚屋、株の売買関係者、山の所有者および機屋(織物関係者)と言われる。
同氏の回顧で馬車鉄が最も繁盛したのは、「中山の殿様」(中山勘解由)の葬式のときで、入間川から飯能まで貨車を含むありったけの車両を動員し、「買いきり」運転で参列者を運んだという。
5 経営の状況
入間馬車鉄道会社の経営は期待に反して、赤字のスタートであった。明治34年上半期の運賃収入5,205円41銭1厘に対し、経費は5,349円35銭1厘で、143円94銭の赤字であつた。
経営不振の原因としては、もともと輸送需要が限られた狭い地域での事業展開であり、中心となる機織り業界の不振、それに関連して一般商業まで影響を受けて不況であったことである。
また、当初の事業計画では貨物輸送もあったが、線路幅が狭く(車両も従って小さい)単線である事等から、客車運転の合間に行う程度では思うような運送ができず、貨物に関しての収入は初の目論見の60分の1と低調であった。主要な貨物として、入間川の砂利運送を想定していたが、前記の次第で実現できず、用意した貨車も処分している。
この他、入間川に架けた橋(木橋)が出水の度に流失ないし破損を繰り返し、その修繕にも多額の出費があったようである。特に明治43年の洪水では、大きな被害を蒙ったといわれる。
各地の小規模鉄道においても、出水による橋梁の修理費負担は大きく、また架設・修理の間は営業も出来ず収入の減少となり、これが引き金で廃業に至った例は多い。
17年間の営業で黒字を出したのは、明治38年(実質は日露戦争で徴発された、馬の代価が支払われたもの。)と明治41年以降(43年を除く)であり、これも資本金を開業時の6万円から3万円と半額に減額する等の対策によるもので、経営の苦労は絶えなかった様だが、大正3年には累積した負債すべてが返済されたという。
この間、重役の報酬は皆無で、株主に対しても無配当のままという、非常に厳しい経営であったといわれる。
入間馬車鉄道の載っている地図 国土地理院発行1/5万地形図 「川越」大正2年 に色付
6 馬車鉄道の終焉
1914年(大正3年)に起こった第一次世界大戦の影響で、鉄材の不足から価格騰貴が起こり、馬車鉄道のレールに目がつけられるという事態が生じ、入間馬車鉄道会社でも株式買占め(乗っ取り)騒動を引き起こした。
会社存続派は沿線地方住民にとって大切な輸送機関であり、馬車鉄道の株主や重役が利益を度外視して経営に当たってきたことを訴えた。
最終的には、存続派と解散派(株買占め派)の妥協が成立したが、周囲の情勢はすでに馬車鉄道存立の時代ではなくなっていた。
もともと限られた地域の需要を当て込んだ事業であり、この地方の伝統産業である織物業界の低迷で、流通にかかわる物も人の流れも停滞し、利用客の増加が望めなくなったこと。
更に決定的なのは、1915年(大正4)4月に武蔵野鉄道による池袋・飯能間の開通で、飯能地方からの人の流れも物の流れも、馬車鉄道から離れてしまったことである。
1917年(大正6)12月19日の株主総会において会社の解散が決議され、17年間にわたった入間馬車鉄道は幕を引いた。
☆ 筆者紹介
西村鉄翁 1935年(昭和10)10月生
現在地に生まれ、引き続き同所に居住 県立飯能高校卒
馬車鉄道「飯能」停車場はごく近い
★ 参考資料
入間市史 近代史料編T
春日部市史
狭山市史 通史編U
同 近代資料編
新編埼玉県史 通史編5
新編埼玉県史 資料編[近代現代3]
同 別編T付録(明治28年埼玉県管内全図)
飯能市史 通史編
同 資料編I産業
「万造じいさんの馬車鉄夜ばなし」 馬車鉄を記録する会 発行
「多摩のあゆみ」多摩信用金庫発行 第70号、76号から
中田亙氏発表 「中武馬車鉄道のあゆみ」他
◎ 面接取材 狭山市博物館 高橋館長
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駅間距離表
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