谷津遊園と謎の駅 (2)  

- 谷津遊園の歴史 -

Map  この谷津遊園だが、元々この場所には塩田があった。初代津田沼村長が、明治中期に私財を投じて完成させたものだそうだが、それがある年、大暴風雨により壊滅的な被害を受けてだめになったのを、京成電鉄(当時京成電気軌道)が買い取って「京成遊園地」として大正14年にスタートした。
 そしてこの遊園地へのアクセス手段として、京成は昭和2年、花輪(現:船橋競馬場)駅から 1.2kmの支線を敷設し「谷津遊園地」駅を設けた。しかしこの谷津支線、京成のもう一つの廃止線「白鬚線」と共に短命で、昭和9年には既に営業廃止となっている。その後は、本線の方にある「谷津遊園」(現:谷津)駅が遊園地への最寄り駅となった。
 一方谷津遊園地の方は、昭和の行楽ブームにも乗って営業も安定し、近隣に開園した船橋ヘルスセンターと共に、沿線の子供達の夢を集める場所として定着する。最初は潮干狩り中心だったようだが、その後、プールや動物園が出来、観覧車、ジェットコースター、ヘリポート等が出来ていった。
 しかしその後庶民の娯楽が変化した事もあり客足が衰えて斜陽化が進み、昭和57年12月、ついに閉園となる(「谷津バラ園」のみは後に復活)。そして翌年、浦安の地に東京ディズニーランドが華々しくオープンするが、これを経営する(株)東京オリエンタルランドは、京成も資本参加をしている会社である。


- 谷津支線跡を訪ねる -

 さて、では谷津支線を辿って少し歩いてみよう。この支線が分岐していた駅は当初「花輪」、次に「京成花輪」と名を変えるが、その後船橋ヘルスセンター等が出来てからは「センター競馬場前」という長い駅名になっていた。私にとってはこの名が一番馴染みがあるが、今はヘルスセンターも無くなってしまったので、「船橋競馬場」である。
 駅を降りて線路と並走する国道14号(千葉街道)を谷津の方向へ歩いて行くと、京葉道路・花輪インターへの取付道路となっている道が海側へ斜めに分岐して行く。これが支線の跡なのかどうかは定かでないが、位置といいカーブの具合といい、かなり怪しい事は確かだ。おまけにその道路脇には、広大な京成バスの花輪車庫まであるし。 (2007/08追記:鉄道ピクトリアルNo.787京成特集の白土貞夫氏の記事も参考にさせて頂きつつ、谷津支線の位置についてもう少し検証をしてみました。→ 補遺へ

Photo
5. R14から右に分岐する道路
Photo
6. 京成バス 花輪車庫

 そこから先は花輪インターと通称船取線、及びそれらを連絡する周辺道路となり、今や酔狂な人間(^^;)でもとても入って行ける場所じゃない。京葉道路が開通したのは昭和35年だから、その折に路盤跡の敷地は大部分が飲み込まれてしまったのかも知れない。
 インターの東側は、高速道路に沿ってその両側共に大規模な団地が並ぶ。それらがことごとく、「谷津遊園」という名をその呼称に冠しているのがちょっと嬉しい。街区も整理されてしまって線路跡らしきものは判然としないが、「谷津遊園地」駅があったと思しきあたりは戸建ての閑静な住宅地区となっており、昼下がりの路地を洒落た着物姿の女性が、一人小脇に荷物を抱えて歩いていた。

Photo
7. その名も「ソフトタウン谷津遊園」
Photo
8. こちらは「谷津遊園ハイツ」
Photo
9. 「谷津遊園地」駅はこのあたりか...

 ちなみにこの谷津支線に関する記述はネット上を探しても数少ないが、船橋市のトピックの中に当時の様子が若干記録されているページ(注:既に消滅につきArchiveサイトへリンク)がある。1998年の過去記事で現在公式サイト上には無いが、他のページと共にその頃の様子を語る貴重な記録だ。あと、おざわっちさんのページ でも取り上げられているが、『K'SEI』雑記帳 には他にも京成の面白い話題が綴られていてお勧めです。






ButtonBack to Rail Page