鑓水
橋本と鑓水を隔てるなだらかな丘のピークを越え、右手に広大な未整備地を眺めつつ坂を下り切った所が由木街道の「鑓水枝畑」T字路。 この信号から右折した先の鑓水中心部あたりまで、街道向こう側の丘陵中腹で線路敷確保の作業が行なわれていたという(写真10)。
ここも含め、第一期区間の中で久保ヶ谷戸から鑓水にかけては南津線で唯一、用地買収が進み工事がかなり進捗した箇所だ。 それは大戦前後の空中写真にも工事跡がクッキリ残っているとされる事からも分かるが、さすがに活動拠点だけあってルート上の土地所有者に賛同する人が多かったのだろう。 その為に用地買収も比較的円滑に進んでいた事が推測される。 以下、当時の状況を参考書より一部引用してみる。
"昭和四年一月二十八日多摩一の宮・津久井川尻間の工事着手届を鉄道省・東京府へ提出した。 土木工事は早速に始まり、まず地元の鑓水丘陵地帯の切り崩し作業が行なわれたが、高低差のある所を切り、盛り土してゆるやかな傾斜の電車道をつくるのは難工事だった。"
"大塚嘉義夫人「サト日記」には「仕事が始まり、山をくずし、土堤もくずし、道路をひろげ、土方も多勢になりました。あちらこちらに沢山の作業(場)ができ、それはそれは大変な(活況の)ことでした。」とある。"
サトウマコト著「幻の相武電車と南津電車」より引用
この区間に限って言えば、鉄道建設がかなり具体的に目に見える形で進んでいた事がわかる。 村人達の期待もさぞや大きかった事だろう。
この付近の住宅地背後の山で、線路敷用に崖の切り崩し作業が行なわれたそうだ。段差は今も残っているという
大栗川に架かる御殿橋の袂に、かつて南津電鉄の事務所があったと聞いて行ってみた(写真11)。 ただ、以前の大栗川は蛇行が激しかったとみえて、ここも河川改修による流路の直線化変更が顕著になっている。 空中写真等で比較してみると昔の大栗川は道路の北側で、現在川の流れている場所が当時の事務所位置にあたる模様だ。 事務所の下流側が鑓水停車場の予定地だったそうだが、ここも一部ガレージとして使われている以外は、ほぼ全体が掘り下げられて川の流れとなっている(写真12)。
このあたりに立てられていた有名な鑓水停車場の碑が絹の道入口に移設されたのも、大栗川の河川改修に伴ってなのかも知れない。 その停車場碑を見るために、裏手の里道を絹の道資料館の方へと登る(写真13)。 周囲のニュータウン開発から残されたこのエリアは、多摩丘陵の昔の姿を見せてくれる今となっては貴重な場所だろう。 束の間だが、しばし自転車むきの良い道をのんびりと走らせてもらった。
資料館の前を通過すると、書籍の写真などでも見覚えのある庚申塔が見えて来る。 右手にY字で分けた絹の道が急坂で森の中へと登って行く場所だ(写真14)。 さっそく自転車を停め、石碑をじっくりと観察してみよう。 あまり事前の勉強をして行かなかったので最初どれがその碑なのか良く分からなかった。 件の参考書にもここの事が出ていて石碑の集合写真が写っているが、肝心のターゲットがアップになった画は掲載されていない。
資料でよく見るこの写真。さて目的のブツはどれでしょう?左から順番に 1, 2, 3 …
順番に見ていってそれらしいのが無いなぁと思い始めた頃、一番右手の電柱足元から、さりげなく小さな石碑が見上げているのと目が合った(写真15)。 近寄って見ると、「御大典記念鑓水停車場」の文字がかろうじて判読出来る。 もう少し大きくて立派な姿を想像していたのだが、それは意外にも小さく素っ気無いものだった。 その表面も他の碑に比べて新しくあまり重厚さが感じられないが、考えて見れば昭和初期の物なのだから、この並びの中ではまだまだ若造という事になるのだろう。
ところで碑文の「御大典」とは何だろう? それは天皇が皇位を継承したことを内外に示す儀典である即位の礼、及び大嘗祭(即位後に初めて行なう新嘗祭)の事である。 大震災で暮れた大正から新しく昭和の世となり、当時各地で御大典を祝う記念碑建立や祝賀行事が執り行われた。 鑓水においても昭和3年11月10日の御大典記念日にこの記念碑を立てた他、それに先立つ10月21日には川尻と鑓水の停車場予定地で盛大に起工式が挙行され、この先にある道了堂では花火も打ち上げられたという。 暗い世相に対峙した人々は明るいニュースを求めていた、そんな心情が今の私には良く分かる。
写真に撮った碑文をモニターで確認していると、背後をシャーッと風が通り過ぎた。 振り向けば、明るいジャージに身を包んだマウンテンバイカーが一人、絹の道を駆け上がり森の中へと消えて行くところだった。 私もそれを区切りに、緩く登って来た道を折り返し、鑓水で最後に残ったスポット高雲山永泉寺へとハンドルを向けた。 ここは南津電鉄の株主総会が何度か開催された会場で、その頃は地域の公民館的な役割りを担っていたとも言えるだろう。 住宅地奥手の小高い所にある小さな寺だが、周囲に人影は無く、風を受けて静かにはためく参道の赤い幟が目に焼きついた(写真16)。
由木中野
さて、鑓水ではさすがに長居をしてしまったが先へと進もう。 ここの由木街道も当時から比べると道の付け替わっている箇所がいくつか存在する。 鑓水地区を東へ出てすぐの所も、左斜めに旧道が分岐して行くのが分かる。 道路も川も直線の近代的な姿になってしまい(写真17,18)、右手の丘の頂には時おり多摩ニュータウン建物群の頭がチラと見えている。 このあたり、一山越えると向こう側は南大沢の街だろうか。
下柚木で左手から野猿街道が合流して堀之内付近まで来るとその丘も切れ、大栗川を隔てて対岸には多摩ニュータウン通りが近接して来る。 信号が変わるとニュータウンの方からやって来た大量の車が交差点になだれ込み、一気に都会の様相を呈して来た(写真19)。 由木中野の駅位置は良く分からないが、距離的に言っておそらくこのあたりが予定されていたのではないか。 とんかつ屋さんの面白い看板のある角を適当に裏手へ進むと、急坂の下に愛宕神社入口の立て札が立っている(写真20)。 思わず条件反射ダンシングで… とはいかず、実際の所は自転車を押してトボトボと、周囲の見渡せる高度まで坂を登ってみた。
野猿街道を外れて裏手へ行くと、丘の麓から急坂と階段で登って行く参道が待っていた
この区間、線路はどのあたりを通る事になっていたのだろうか。 まだ人家が少ない時代なら、丘陵の麓あたりを巻いていったのかも知れないな。 あるいは、鑓水付近のように崖の中腹に段を築き、街道沿いの村々を見下ろしながら進む車窓になったろうか。 遠く稜線にニュータウンの街並みが見渡せる丘の上で、五月の空を渡る緑風に吹かれながら、唯一人そんな夢想にしばし浸っていた(写真21)。