多摩一の宮
鑓水のあたりでは分不相応な感じがした中央分離帯付片側2車線の道路も、さすがにこの付近まで来るとそれを必要とする程度の通行量になって来る。 多摩都市モノレールの高い高架橋の下を潜り(写真22)大栗川を2度ほど渡れば、車道の車も増えて来て、やがて大きな信号で川崎街道と交差する。 ここを右手へ少し行った場所が多摩一の宮駅予定地だったそうで、現在コンビニと作業服販売店の入っているビルがその場所だ(写真23)。 今は大きな流れとなった川崎街道だが、当時はここを踏切で通過して行く事になっていたのだろうか。
冒頭でも書いたように、南津は当初ここから玉南電鉄への乗り入れを計画していた(写真24)。 その為もあって1,067mmの軌間で免許をとっていたが、その後玉南は京王電軌に統合されて新宿直通のために1,372mmへと改軌が決まってしまう。 それで、南津の都心乗り入れ計画は相手にふられて宙に浮く形となってしまったのだ。
このビルの場所が多摩一の宮駅予定地だったとの事。玉南線を乗り越える為には、おそらく駅のホームを築堤上か高架に乗せる必要があったであろう
しかし、当時南津の社長をしていた林副重は、玉南の役員も兼ねていたのに何故このような事態に陥ったのか。 この時代の私鉄は一般に地方鉄道法の補助を受けようとして「鉄道」として免許をとり、その条件である1,067mmの軌間で開通させる例が多かった。 玉南も同様であったが、結局中央線との競合により補助金は交付されない事となり、では親会社の京王と異なる軌間で運行していても意味が無いという事で、さっさと軌道特許を取り直し改軌してしまったのだ。 さすがの林氏も、これをとめる事は出来なかったのだろう。
そこで南津の考えた窮余の策は、多摩川を渡って省線の国立へと乗り入れる延長線を建設する事。 これには、当時大震災からの復興景気で多摩川の砂利需要が大量にあった点も背景となっている。 河川敷から採取した砂利を輸送する事により少しでも収益を上げようとしたのだ。 幸い、多摩川の向こう岸で路線を計画している東京多摩川電鉄という会社との提携話が進み、線路敷設は川を渡ってすぐの間島までで済む事となり、その先は相手線への乗り入れという形になった。
というわけで、お腹もすいて来た所だが探索はもう少し先まで行かなければならない。 玉南との交差部は現在パチンコ店裏手の立体駐車場付近かと思われるが(写真25)、当然後から来た南津が上を乗り越す形になっただろう。 そしてその先が一の宮集落の中心部だが、ここは区割りからして古くからあった村がそのまま今に残っている感じだ。 ここらは線形からすると、小野神社の門前(写真26)、あるいは境内の一部を通過して多摩川土手へと取り付くルートが自然そうな感じに思えた。
間島
裏路地を伝って古い住宅地を抜け、多摩川土手の遊歩道へと登る。 目の前には河川敷の運動場とその向こうに多摩川の流れ、対岸はさらに広大な草地となっており、ここに架橋するのはなかなかに大変な事業になった事は想像に難くない(写真27)。 遠くの鉄橋を走る京王線の音を聞きながら、しばし川を渡って行く南津電車の姿を想像しつつ休憩。 その後、再び車道に戻って対岸へと渡る。 多摩川を跨ぐ府中四谷橋は美しいフォルムの斜張橋で、多摩サイを通るたびに工事の進捗を眺めていた。 まだ開通したと聞いて間もない感覚でいたが、これももう出来てから12年以上が経っている。
地図上にルートを引くと鉄橋建設の予定地はこのあたりだろうか。上流には府中四谷橋、下流には京王線が渡っている
東京多摩川電鉄との結節点となる筈だった間島駅、現在付近に地名としてこの名は残っていないようでヒントが無いが、川を渡った南津線は「四谷文化センター西」の交差点あたりを北上して間島駅に至ったのではないかと考えていた。 そしてそこからは東京多摩川電鉄に乗り入れ、中央道の国立府中インターの位置を通過し、谷保駅西側を経て国立駅へ至るというのが地図上では素直な線形に思えた。 というわけで、ここでとりあえず全線の探索を終え、帰路の多摩川サイクリングロード途中でお昼にした後、そのまま青梅まで帰って来た。
その後、間島駅がどうもスッキリしなかったので地図を再確認してみたら、京王線中河原駅北方に小野宮間島自治会館というのを見付けた。 この付近には小野神社というのがあり、これは途中で通って来た多摩川対岸の小野神社とも関係があるらしく、色々と興味深い地域だ。 さらに、少し離れて府中の住吉町3丁目に間嶋神社というのもある(写真28)。 おそらくこの間嶋神社と小野神社の村域が合併して、小野宮間島自治会となったのだろう。 線路の位置だが、あまり東の方だと国立駅へ向かう繋がり具合に無理があるので、間嶋神社西側のあたりを通る予定だった(写真29)というのがルートとしてはギリギリ妥当な推測である気がする。