相模川尻
昨夏以来の自転車による探索、滝山街道, 高尾街道, 町田街道と繋いで現地へと赴く頃には程よく尻が痛くなって来る。 この感覚、ちょっとした快感でもあるがもちろん自分は特段変な趣味を持っているわけではない。 自転車乗りのかたなら理解してもらえるだろうが、あるいはそれは私だけかも知れない。 しかし最近はちょっと来ない間に新しい道の出来ている事が多いこの地域、今回も館ケ丘団地の下で八王子南バイパスが高尾へと抜けているのに遭遇。 圏央道アクセスの役割もあるんですかね、もうこんなトンネルが出来ちゃってるのかぁ。
さて、そうこうしながらやって来たのは相模川尻停車場の出来る予定だった地点、現在の住所は相模原市緑区久保沢だ。 橋本陸橋から国道413号線を津久井湖方面へと向かうと、途中で歩道橋のあるY字分岐が見えて来る。 ここの右手、八千代銀行の入っている建物の位置が相模川尻駅の予定地だったとの事(写真1)。 私もこの道は何度か自転車で通過しているが、ここが南津にかかわる場所だったという事は、今回この記事を書くにあたって初めて認識した次第。
国道413号城山交番前信号。右手の八千代銀行のあたりが駅予定地だったらしい
その裏手には相模原市役所の城山総合事務所があり、このあたりは今も街の中心地区となっているようだ。 そこからさらに奥へと進むと相模川に向かう急な下り坂となり(写真2)、これ以上先に線路を延ばすのは少し施設的に困難を伴う事が予測出来る。 この城山地区から相模川を渡った先、津久井やその南の愛川地区は今も鉄道の空白地帯だが、古くより鉄道を渇望しており、計画が起きる度にその誘致を行なって来た。
相模鉄道(現JR相模線)も当初ここ川尻を経由するルート案があったものの、最終的に橋本に持って行かれた。 淵野辺から上溝を経て愛川村へ至る計画だった相武電鉄も、結局は夢に終わった。 戦後は京王津久井線や小田急の城山線、さらに西武も多摩川線からニュータウンに乗り入れて城山に至る路線延長を目論んでいた時期もあるが、これら全ては実現しなかったのだ。
相模川尻から次駅の相模相原までは、ほぼ国道413号に沿ったルートが予定されていたと予測される。 横浜線へ近づくあたりからは少し北へ外れ(写真3)、橋本8丁目付近を通過して橋本高校の北側を抜けて行く形になっただろう。 横浜線は当時既に全通していたので、線路交差部は南津側が上を跨ぐ条件になった筈だ。 その交差位置と思しき地点脇には、京王が津久井線建設の為に確保していたらしい土地に、系列の集合住宅が細長く建っていた(写真4)。
相模相原
踏切を渡って横浜線の東側へと進み、徐々に街中へと入って行く。 橋本もしばらく来ないうちにやたら高層建築が増えたようで、空にニョキニョキとビルが突き出している景観に驚かされた(写真5)。 ところで橋本付近の街中を通過する線路はいくつか案があったらしいが、今回はその中で最も有力だと言われていたルートをトレースしている。 また一説には、相模相原から分岐して横浜線の相原駅へと結ぶ短い連絡線の建設もルート案にはあったようだ。 相模相原の停車場は横浜線を越えた先、現在国道16号の走る位置(写真6)との間のエリアに予定されていたと思われる。 場所の特定は難しいので、ここはスキップして先へ進む事にしよう。
カメラをズームにすると、背景の高層建築が空に向かって競りあがって来た
16号を過ぎて橋本の繁華街北側を斜めに通過し、境川に架かる「ことぶき橋」の所を南津の予定ルートは通過していた(写真7)。 境川は自転車乗りとしてはサイクリングロードがすぐ頭に浮かんで来るが、こんな所で南津電鉄とも繋がりが(と言える程でもないが)あったのは意外だった。
境川を渡るとすぐに町田街道との交差点。 その向うには久保ヶ谷戸のトンネルがあり、短いがなかなかいやらしい感じで口を開けて待っている(写真8)。 おそらく南津も、この丘陵を越える為にはトンネルを建設せざるを得なかったのではないか。 あるいは境川を渡るもっと手前から築堤で線路レベルを上げつつ、丘陵を切り通して坂を登っていったのかも知れない。
町田街道の信号が変わり、ペダルを踏んでキツそうな登り坂のトンネルに突入する。 こういう坂道はジワジワと行くに限る… と思っていたら、一緒にスタートした周囲の買物自転車にたちまち置いていかれてしまった。 坂の上には大型のショッピングセンターがあり、そこへ向かう地元の人達はさすがに普段から鍛えられているのであった。 一頻り登ってなだらかなサミットを越えると左手には多摩美大の白い建物、道は由木の谷筋へと向かってゆっくりと下りだす(写真9)。