車内の電光掲示板に「ただいま 新玉名駅を通過。」の文字が流れる。 いくつかトンネルを抜けた「みずほ」603号は、速度を落としつつ高架線を緩いカーブで回り、熊本の市街地へと降りて行く。 初めて乗った九州新幹線、いや、九州内では山陽新幹線も小倉から本州方しか乗った事がなかったから、新幹線自体が九州内ではほぼ初体験と言えるだろう。 さすがの俊足で博多を出たと思ったらあっという間、もう熊本に着く。 やがて「まもなく熊本…」の案内放送が流れ、右手から花岡&万日山が近づき、列車は高架となった熊本駅のホームに滑り込んで静かに停車。 ドアが開いて足を一歩外へ踏み出すと、熱い空気の塊に気持ちが一瞬押し潰されそうになった。
往路の切符は鹿児島までなので、熊本駅の自動改札を途中下車扱いで抜け、まずは駅舎内の総合観光案内所へ行って市電の一日乗車券(500円)を買う。 カウンターの女性は親切に使い方を説明してくれたが、例によってスクラッチ式の、自分で日付の欄を剥がして使用開始するタイプだ。 これはいつも失敗しないかドキドキする。 分かってはいたが、念のためお姉さんに「今日何日でしたっけ?」と確認してから慎重に剥がすの儀を敢行した。 目の前で行なうのは万が一失敗した時に、「あーっ!やっちゃった~」と訴えたら何らかの救済策を高じて貰えないか?という甘い下心があっての事だ。
駅を出ると、相変わらず熊本は炎暑の中にあった。 曾遊の地ではあるが前に来たのは実に11年前、新幹線の高架は既に工事中であったが、往路に使った天下のブルートレイン「はやぶさ」は、その後に廃止されて久しい。 本日最初の目的である熊本市電もその時に乗ったのだが、菊池電車と熊本駅前を繋ぐ為にほんの一部区間だけ、しかも日が落ちた後だったので車窓も何も無かった。 今日は改めて全線乗ってしまうつもりで来たが、始発駅はここから数百メートル南へ下った田崎橋である。 電車で移動するほどの距離でも無いので、暑い中だが徒歩で向かう事にした。
軌道に沿って歩いて行くと、その停留所はすぐに見えて来た。緑化軌道を挟んで路面電車の低いホームが向かい合っており、その奥手には引上線で待機する次の電車が見えている。 発車までまだ5分程あるので、ホームに上がって写真を撮る。 そろそろ入線して来ても良い頃だと思いつつ電車の方にカメラを向けると、「あっ!」なんとそちらにもホームがあるのに気がついた。 やばいやばい、ここは始発駅との間にある、もう一つの停留所だったのだ。 カメラを手に持ったまま、バタバタと慌てて走り出す。
幸い距離的には然程離れておらず間を遮る信号もないので、すぐに電車へ駆け込めたが、そのせいで田崎橋電停の写真がまともに撮れなかったのは残念だ。 ドカッと席に着くと同時に「プー」っと折り戸が閉まり、「発車します」との肉声アナウンスで電車は動き出す。 先ほどの中間駅「二本木口」では誰も乗降がなくタッチアンドゴー、すぐに大屋根のある熊本駅前電停に着いた。 さすがにここからは大勢の客が乗車。 地元民も多いようだが大半は観光客で、それも会話を聞いている限りは、アジアや欧米系外国人の比率が高そうだ。
健軍町行きの電車は、発車すると右に左に交差点を曲がりつつ進んで行く。 熊本城・市役所前では観光客の多くが、そして通町筋の電停では残っていた買物客らしき人達が大量に降車して、車内は一気にガランとしてしまった。 このあたりには老舗の百貨店やパルコのビル、また商店街等も見える。 多くの地方都市と同じく、熊本もまた中心駅と市街地の繁華な場所が離れているのだ。 前回は熊本電鉄の藤崎宮前駅から上通のアーケードを抜けて歩いて来て、ここから熊本駅前まで市電に乗ったのであった。
市電は交通局前で乗務員が交代となるが、その後の区間は心なしかスピードが上がった様な気がした。 豊肥本線の新水前寺駅下を潜り、道路中央を一直線に進んで行く。 終点の健軍町は大きな交差点だが、軌道はその手前で唐突に終わっていた。 運転士に一日乗車券を見せて降車。 冷やし過ぎと思うほど冷房の効いた車内から灼熱の道路上に放り出され、全身から一気に汗が吹き出すのが分かる。 路面電車にしては大分長いこと走って郊外に出たような気分だったが、交差点の一方向は大屋根のアーケードになっていて、このあたりもまだまだ商店エリアの様だ。
次はここから折り返しで上熊本行きを9分程の待ち合わせ。 日射が厳しいのでしばらくアーケードの屋根下に避難していたが、これから1時間程乗り続けるので、その前にどこかで用足しを…。 交差点向こうにコンビニが見えたので、信号を待ってそちらへ移動。 トイレついでにお昼のお握りを仕入れ、ちょうど電車の時間となったので停留所へと戻る。 だがしかし、失敗した!ここの信号は歩行者専用を含めた3切り替え、車道の交通量が多い為か、青になるまで異常に待たされるのだ。
道路中央にあるホームへなかなか渡れず、そうこうしてる間に乗るはずだった電車は行ってしまった。 仕方ない、再びアーケード下で時間を潰した後、今度は暑いのを覚悟の上で早めにホームへと渡って電車を待つ。 始発の田崎橋からここまで乗って来たのは熊本駅前を通るA系統、これから乗るのは途中で分岐するB系統の上熊本行きで、ここ健軍町電停からは両系統が交互に発着となる。
時間が来て発車すると、電車は停留所ごとに乗客を拾いつつ中心街区へと戻って行く。 熊本城下を過ぎて熊本駅前方面の線路を左に分けた後、ここの市電では唯一の専用区間へと入る。 と言っても停留所から停留所の間の僅か一区間だけだが、ちゃんとその間には警報機付きの踏切が律儀に設けられている。 その専用区間が始まる停留所「洗馬橋」は、童謡「あんたがたどこさ」で歌われる「せんば」の船場橋、専用区間の終わりが「新町」となり、私はそこで電車を降りた。 出かける前に、どこか電車を撮影して絵になる所はないかと地図を見ていたところ、この場所でなかなか素敵な建物を見付けたからだ。
その名は「長崎次郎書店」、そんじょそこらの本屋とは違う、何しろ創業は明治7年だ。 そのレトロモダンな建物は、国登録有形文化財ともなっている。 平成25年に諸般の事情により一旦休業する事となったが、分家の長崎書店が後を引き継いで翌年に再開したという経緯がある。 その目の前の交差点を路面電車が通るのだから、絵にならないわけが無い。 書店2階にはこれまた雰囲気の良い喫茶室があるので、市電の往来を眺めながら珈琲をすするのも酔狂と言うもんだろう。 私は残念ながら時間が足りず一電車の間のみの滞在だったが、再訪の機会があればぜひとも店内に入って寛ぎたいところだ。
今日はこれからまだ鹿児島へ行かなければならないので、再び市電に乗って終着の上熊本駅前まで移動。 念のため駅の窓口で「Suicaで熊本駅まで行けますよね?」と確認したところ、若い駅員氏に「えッ…、スイカってICカードのスイカですか?」と返答された。 内心「食べ物のスイカで電車に乗るわけなかろう…」と突っ込みたくなったが、ここは関東ではないので Suicaと言ったって知名度はその程度のもんだろう。 ホームの待合室でお握りを頬張りつつしばらく待ち、鹿児島本線の電車で一駅移動して熊本駅へ。 この旅の往路最後となる新幹線「さくら」553号に乗り換えて、一路、鹿児島中央駅へと向かった。