五
さて、夕刻にもかかわらず宿の最寄り駅を飛ばして上熊本まで足を延ばしたのは、それはもちろん熊本電鉄に乗るためである。 既に自社オリジナルの車両が走らなくなってしまっているとは言え、随所に地方ローカルの雰囲気を大いに残している愛すべきこの私鉄に乗らないでおかれよう筈もない。 JR上熊本駅前にはその熊本電鉄と、他に熊本市電も乗り入れており、ある意味交通の要衝となっている。 の、わりには少々もの寂しい駅前の風情ではあったが、私にとっては鉄の匂いのする嫌いではない空気を感じた。 駅舎を出て広場左手片隅にある電鉄の小さなホームへと向う。 無人の改札を抜けて片側一面の細いホームに出ると、そこにひっそりと待っていたのは元東急の青ガエルこと5000系。
おお良くぞ生き残っていてくれたという感慨もひとしおだが、全国の地方私鉄へ譲渡されていった中で唯一まだ現役で活躍している一両がこれである。 一両… そう、ここ熊本電鉄では単行運転で走らせるため先頭車を改良して連結面側にも運転設備を追加し、その運転室の切妻形状から「平面ガエル」とも呼ばれているのだ。 塗装も当初は独自のものに塗り替えられていたが、現在は東急時代に戻されており非常に好ましい。 ただ、冷房化もされていない(工事がうまく出来なかったらしい)ので、この時期の運用は乗客・乗員共に非常に辛いものがある。
乗車して整理券をとり、着席。暑い空気を掻き混ぜてブンブン唸っている扇風機がいい味を出していて懐かしい。 吊革の広告もそのままで、東急にあまり縁の無い私にとってもこれはなかなか郷愁を誘ってくれるものだ。 時間が来て発車。鹿児島本線の線路を左に見つつ「グーン」とモーターを唸らせて駅を離れ、加速して広い県道を斜めに横断にかかる。 と思ったのも束の間、タイフォンを目一杯鳴らして急制動がかかり、ブレーキの大音響をあたりに撒き散らして電車はその場に停止した。 カンカンと鳴っている警報機、車内には鉄粉の匂いが立ち込める。 運転士は側窓を開けて外を覗き、何やら踏切脇の車と言葉を交わしている。
どうやら車が微妙に踏切からはみ出していたようだが、これが本日二件目の事件であった。 すぐに運転を再開し、大した遅れもなく進んで行く。 線路状態は然程悪くはなさそうだが、車体の揺れに増幅されて吊革が左右の網棚にあたり、カンカンと大合唱をしている。 いくつかの小駅に停車しつつ途中でトンネルも抜け、やがてゆるい左カーブに入ると右手から藤崎線が寄り添って来て、ジャンクションの北熊本駅に到着。 上熊本からの菊池線はこの先も続くが、平面ガエルはここまでの区間運転。 現在は藤崎線の方が終点の御代志まで直通していて、本線的な扱いになっている。
下車して同じホーム向かい側の御代志行きを待つ。 振り返ると、向こうの留置線にはもう一両予備車の青ガエルが眠っている。 これは乗ってきた車両と先頭部が逆向きになっている為、二両連結で走らせると新車登場当時に近い姿となりそうだ。 何れ遠からず廃車の時期が来るのだろうが、その際にはぜひそんな勇姿を見せて欲しいものだ。 ここに5000系の残っているのは単行運転の出来る事が理由なのかもと思われるが、熊本電鉄にはLRT化及び市電との直通乗入れ構想もあるようなので、実現の暁には全車両が入れ替わってしまうのかも知れない。
しばらくすると藤崎宮前方面から御代志行きがやって来た。 ここで逆方向の列車と交換するので、三本の線路に三本の列車が揃う一大イベントとなる。 乗り込んだ電車は、元都営地下鉄三田線の6000形。 こちらも既に都内からは姿を消して久しいが、やはり吊革の広告等が当時のまま使われていて感慨深い。 そこから先、多くの駅にこまめに停車して行く様はバスに近いものがあった。 終点の御代志では脇の車道を並走していた電鉄バスが絶妙のタイミングでホーム向かい側広場に乗りつけ、電車からの客を拾い走り去って行った。
熊本電鉄はかつてここからさらに線路が延びており、終点は遥か先の菊池であった。 地元の人からしばしば「菊池電車」と呼ばれるのはそれが所以だが、昭和六十一年に廃止されて今の中途半端な路線となる。 電車を降りて線路終端部の先を覗いてみると、雑草の生い茂った線路跡の敷地が細く長く延びていた。 御代志には何も用事が無いので乗って来た電車で折り返し、今度は北熊本で乗換えをせずにそのまま藤崎宮前へと向う。 終点の少し手前には道路と空間を共用した路面区間があり、電車はその狭隘な路地を注意深く徐行で進んで行った。
つかの間の路面区間を抜ければすぐに終着の藤崎宮前。 電鉄の中では一番の繁華な場所にあるこの駅は、ビル一階部に突っ込む形で小じんまりではあるが近代的な乗降分離式ホームが設置されている。 駅から出て目の前の大通りを渡り商店街を進んで行くと、小腹の空いた私を「上通り」のアーケード入口が大きな口を開けて待っていた。 ようやく日も暮れたのでここらで軽く腹ごしらえ、今日は昼抜きでもあるし、さあ美味しく一献を始めよう。
といっても一杯やったわけではない。 まだ宿までは距離があるのでお酒は控え、とりあえず軽い食事だけにしておいた。 それに汗で体中がベタベタしており、早く一風呂浴びたいという気持ちの方も強いのだ。 一休みした後はアーケードを抜けて、通町筋の電停から市電の客となる。 さすがに周囲はもうとっぷりと日が暮れて向こうにある筈の熊本城も見えないが、車内は満員の盛況で停留所ごとの乗降も多く活気に漲っている。 熊本の街は熱く元気だ… そんな感慨を持って熊本駅前で電車を降りた。 ちょうど逆方向の停留所には国内で最初に導入された軽快電車がやって来て、その優美な車体を電灯の下に白く光らせていた。
チェックインした駅前の宿、風呂上りのサッパリした体で麦酒と美味しいつまみを堪能しつつ、酩酊した頭の中で先ほどの光景を思い出している。
宿へと転げ込む前にお酒でも買って行こうと、駅舎内の大型キオスクに立ち寄った時の事である。
何か熊本らしいものを酒のツマに… と思って物色していると、おお、ありましたよ、店奥の冷蔵庫に名物の馬刺しが。
夜食の小ぶりなお弁当と共にパックを抱えていそいそと会計へ。
「お帰りはどれ位お時間かかりますか?」レジの若い売り子さんにこう問われた私。
へ?… あぁ、保冷材を入れてくれるという事か。
「すぐ食べますんで、そのままでいいですよ」
「あ、では、お醤油と箸付けときますね。何人でお召し上がりですか?」
どうも最初は家族へのお土産、次はこれから列車内に持ち込んでグループで食べるものと勘違いされたようだ。
この質問と同時に、そばにいた同僚のもう一人がどこかへ駆け出して行った。店奥にある醤油パックをとりにいったらしい。
「えーっと、ひとり分で大丈夫です」「え?おひとりで…」
少しして戻って来た同僚はレジの店員から私の答えを伝え聞き、少し複雑な表情をした。
手には五~六個の醤油小袋が握られていたのである。さあ、彼女はどうするのが正しいか。
一 醤油は一個だけ包む
二 少し余分に二個包む
三 とりあえず持って来た物を全て包む
どれが正解かは分からないが、彼女は「余分にお入れしておきますね」と、持って来た袋全てを包みに入れてくれた。
結局醤油はその晩で使い切れずに数袋が残ってしまったが、翌日次の宿での夜食に重宝したので私としては有り難かった。