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2007/07
kumamoto nise ahou train
[ ensyo no higoji ]
繰り返しブックカバーが擦り切れるほど読んだ内田百閒「阿房列車」の各編。 その冒頭に必ずと言っていいほど出て来るのは、長距離列車に乗り込む一騒動からスタートする旅の幕開けだ。 御一行が九州方面へと出かける際にも「筑紫」「きりしま」「雲仙」など様々な列車で出発しているが、今これらを実践するとしたら唯一残っている伝統の東海道ブルートレイン「富士」「はやぶさ」を利用するしかないだろう。 もとより、かねてから一度乗ってみたかったA寝台個室が連結されているという事もあり、この夏は定期列車の最長距離ランナーである「はやぶさ」の客となって、遥々熊本へと向かう旅を敢行する事にした。
※基本的に実体験に基づいて書いていますが、一部に想像,妄想の類が含まれる場合があります。

平成十九年文月某日、時刻は十八時三分、特別急行列車「はやぶさ」号は静かに東京駅十番線プラットホームを発車した。 機関車が曖昧な汽笛を吹鳴する事もなく、見送亭夢袋氏の見送りもなく、勿論お供の山系氏が隣の席にいるわけでもなく、私は一人コンパァトメントの一室に閑々として座している。 これから一晩をかけて遠路お出ましになる先は熊本だが、そこに別段用事があるわけではない。 目的といえばこの列車に乗る事、だから復路はなるべくお金をかけずに三等車で粛々と帰って来るつもりだ。

東京~熊本間千三百十五キロ、所要十八時間近くを過ごす事になる居室は、今回A個室寝台「シングルデラックス」を奮発した。 B個室寝台「ソロ」というお値打ち品も選択肢にはあったのだが、ここは百閒先生に倣って「一等車があればそれがいいに決まっている」という事にした。 しかし昨今の夜行列車には特急と言えども食堂車が連結されていない。 ボイもいないので途中駅で買いに走らすわけにもゆかず、従って乗車前にエキナカコンビニエンスで一通りの食料飲料は調達して来たという次第。

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列車は徐々に加速して、有楽町、新橋と通勤客で満載のホームを窓の後ろへとすっ飛ばしながら走って行く。 この都会の景色ともしばらくはお別れだが、普段東京の最果てに引っ込んでいる私がそんな事を心配したって仕方が無い。 検札があるのでドアは半開きのまま、中途半端な気持ちで左右の景色を眺めている。 車掌氏の一通りの案内放送が終わり「ブツブツ」としばらく音がした後、唐突に「後部聞こえますかー」という声がした。 マイクを切り忘れたのか、後部の車掌と業務連絡をとっている様子が客室のスピーカーを通して筒抜けに聞こえて来たのだ。 なんでも発車間際に指定券を持たずに飛び込んだ客がいるらしく、どこへ収まってもらうかを調整しているのだが、同僚とのやりとりは表向きの放送と違ってお国なまりがやわらかく、何とも和ませてくれたひと時であった。 この出来事で一気に親近感が沸いてしまったが、後で調べてみるとどうやら下関の車掌さんが受け持っているようだ。

さてその後検札も終わってドアを締め、浴衣へと着替えて人心地ついたのは六郷川を渡ったあたりだったろうか。 盛夏の事とてあたりはまだまだ明るいが、とりあえず寝台も引き出していつでも寝られる準備をしておく。 車掌氏からはドアの施錠方法とベッドの出し方がおわかりですかとの事だったが、発車前に既に自分で一通りやってみたので説明の労は丁重に辞退した。 全ての設備に懇切丁寧な説明書きがあるので、それを読んでその通り忠実に行なえば何事も思い通りに運ぶもの。

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今夜のメニゥは新潟の焼きたらこトロ鮭弁当で手を打った。 昼間に新幹線の停電があって東京駅構内もだいぶ混雑の様相を呈していたが、その中を重いリュックを担いであちこち好みの物を捜し歩いた成果品である。 荷物を預ける赤帽さんがいれば良かったのだが、現代ではコインを食う冷たい鉄の箱がその役割を担うという事になっている。 そしてそれは必要な時に限って手近な所には無いのが世の常だ。 飲み物に関しては先生ほど酒の味がわかるご身分でない私は、ビール一缶があればもう気分は満足。 しかも今日は贋ビールでなく、ちゃんと「麦酒」と書いてある上等品を仕入れて乗り込んだのだった。

ところで走り出してから気づいた事だが、この部屋は後ろ向きだ。 いや気持ちが後ろ向きという意味でなく、進行方向に対して椅子が後ろを向いている。 それじゃあ座席を方向転換させればよろしいというわけにはいかないし、「あれあれ山系君、思っていたのと逆の方に走って行くよ」等と列車のせいに出来るもんでもない。 さてどうしたものか。 まぁ、後で考える事にしてとりあえず先にお弁当を片付けてしまおう。 ベッドの片隅に胡坐をかき、窓際の洗面台兼用のテェブルにご馳走を一通り並べて飲み食いにかかる。 駅が近づくとカァテンを閉めてその隙間から外を眺めているが、時々好奇な通勤客の覗き込む視線と目が合ってしまうので要注意だ。

列車は横浜駅からの乗客を拾った後、だんだんと特急らしい速度になって東海道を下って行く。 客車がレールの上を滑る静かな響きと、時々混じる「ガタッ、ガタン」という分岐器上を通過する音が佳きリフレインとなって静かな室内に流れる。 気がつくと、だいぶ暗くなって来た車窓の中空を明月がどこまでも列車の後を追いかけ、その下にはいつの間にか青黒い相模灘の海面が地球のふくらみを見せるように広がっていた。 次の停車駅は熱海である。

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