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kumamoto nise ahou train  [ ensyo no higoji ]

熱海を発車して長い丹那隧道を抜ける頃には一通りの飲み食いは終わってしまい、そうするとあとはこれといってする事がない。 横になるにはまだ早い時間だし、せっかくの個室を満喫しないで寝てしまうのも勿体無いので、もう少し起きていようかと思う。 ところが、寝台は睡眠には都合がいいが、座って景色を眺めるのには不便に出来ている。 特にこのA個室は窓際にテェブル、否、洗面台が据え付けてあるので、その排水導管の関係で足元がほぼ塞がっており、従って窓に寄り添い、頬杖をついて流れ行く景色を眺望する事が難しい。 しかも前述したようにシートは後ろ向きだ。

それで一計を案じたのだが、旅の相棒である山系氏との心の中でのやりとりはこうだ。
「山系君、私の目の前にあるこれは何だ」 「それはテェブルです」
「これをこうして開けると?」 「洗面台ですね」
「ではこうして閉じたら?」 「テェブルでしょう」
「いや、そうとは限らないだろう、座席かも知れないよ」 「・・・」
「事物が常に提供者の想定した目的で存在すると考えるのは間違いだ」
「はあ」
幸いこのテェブルは頑丈そうな蝶番で固定されているのと同時に、床から伸びた太い漏斗状の据付台にでんとして乗っかっている。 そして私の体重はそれ程重くは無い、それで条件は成立した、という事にした。

そこで、車室の中にあるものを材料にしてセッティングにかかるが、枕を背もたれに、毛布は折りたたんでお尻の下に敷いた。 テェブル、枕、毛布と、それぞれ三者三様、用途と違う使い方をしているが、万事が解決したから大変目出度い。 これで特設の特等座席が出来上がりだ。まぁ、座ってみよう。 立派な紳士がテェブルに腰掛けるのはあまりお行儀の良い所業とは言えないが、テェブルでなく洗面台の上に乗っていると考えれば、寛容出来る範囲内だろう。 なかなかいい感じで、これで列車の進行する意思と一心同体となり、常に行く手を見据えている事が出来よう。 しかも備え付けの座席と比べてこれはハイデッカァ仕様である。

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部屋の照明を全て消し、カァテンを全開にしてしばらくこの特等席に鎮座ましましていた。 ガラスに映り込む車内の灯りが無い分、そして月明かりも相まって外の景色が鮮明に見えて愉快である。 蛙の鳴く(ような気がする)田んぼの向こうの山際に一軒家があって、橙色の室内に子供の影が映っている。 踏切の赤い警告灯が窓ガラスに尾を引いて目の前を飛び去る一瞬、カンカンという微かな警報音がガラスの向こうで音程を変化させ消えてゆく。 途中駅を高速で通過する時、駅ホームの蛍光灯が太く真っ白い光の帯となって、私と暗い車室を照らし出した。 列車は夜の山野をひた走り、グイグイと我々を引っ張って西へ向かって進んで行く。 彼方に夜空を照らす大きな街明かりが見えて来たのは、あれは名古屋のあたりだろうか。

夕刻に東京駅を発車した列車は、東海道の主要駅に小刻みに停車しながら途中からの乗客を拾って走る。 横浜、熱海、沼津、富士、静岡、浜松、豊橋と、ここまでA個室車に関してはあまり人の動きはなかったが、名古屋では何名か乗車して来たようで、停車すると同時に廊下を行き交う靴音がした。 名古屋を発車すると次はすぐ岐阜に停車、時刻はもう十一時をまわった。 少し早いけれどもそろそろ寝ようかと思う。 座席の任を解除した洗面台で口を濯いだあと横になるが、扉の向こうをトイレに向う小さい子と母親が行ったり来たりして少々騒がしい。 それよりも困り物は、何箇所かある廊下の灰皿の一つが、ちょうど私の個室のすぐ前に据え付けられている事態である。 ここへ、とっかえひっかえ寝台から出て来て煙草を吸う輩がいるもんで、ドアの足元から臭気が侵入して来て大いに気分を害した。 分煙なんて考えも及ばなかった時代に建造された車両であるが、これは非喫煙者としては何とかして欲しい所だ。

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それもようやく収まって半分まどろみかけた頭の中に、扉の向こうから何事か会話している声が聞こえて来る。 話の内容からすると、どうやら名古屋から乗ったらしい男性と廊下を通りかかった車掌が話をしているのだ。 既に寝ている乗客に配慮してか、お互い静かな語り口なのでその言葉は途切れ途切れにしか聞き取れないが、
「・・・新幹線が遅れて・・・、東京から乗れなかったんで・・・」
「それはお気の・・・」
「追っかけて名古屋から・・・、・・・払い戻しは・・・」
「うーん、そう・・・ましてもねぇ、この列車が・・・」
「個室を楽しみに・・・、これじゃ納得が・・・」
「・・・でもまだ夜は・・・ ・・・何でしたら私の方で・・・」
「・・・ ・・・」
というようなやりとりであったと思う。 その先も話は続いていたが、私も眠りかけでこれ以降はあまり憶えていない。 シチュエイションは想像に過ぎないが、男性は東海道沿線のどこかの街からわざわざ一度新幹線で東京に出て、始発駅からこの列車の寝台を楽しもうとしていた。 それが昼間の停電騒ぎで新幹線が遅れ、東京に着いたものの「はやぶさ」は発車した後だった。 そこで再び新幹線で追いかけ、名古屋でやっと追いついてこの列車に乗り込めたという経緯だろう。 最後の方は二人の談笑になっていたようなので、車掌氏の対応で男性の気持ちも収まったのかも知れない。

そんな思いを巡らしているうちに浅いながらもしばらく眠っていたようで、コトンという小さな揺れで目を覚ました。 カーテンを少し引いてみるとそこは深夜の大阪駅、ホームの向こうには営業を終えた通勤電車が窓を暗くして体を横たえていた。 時刻は深夜の一時をまわっている。 ここからも何人かの客が乗り込んだようだが、それも一段落すると発車までのあいだ暫時の静寂が訪れる。 ベッドに横になっていると深閑として、まるで列車全体が深い海の底へと沈んで行くような心持ちがした。 しばらくして再びガクンと揺れ、カーテンに映るホームの灯りが静かに後方へと流れだす。 それからも眠ったような眠っていないような、どっち付かずで横になっていたのだが、そのあたりから翌朝まで記憶の糸が途切れているので、知らず知らずのうちに眠りに落ちていったのだろう。 後から唯一思い出したのは、疾走する列車の床下で「コォーコォー」と線路が鶴の声のように鳴り響く音。 あるいはそれは、夢の中で聞いた幻聴音だったのかも知れないが。

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