池袋から東上線に乗り込み、下板橋、中板橋、そして上板橋に着く。 ここで支線に乗り換えて終点の「東武光が丘」へ。 電車を降りれば、目の前は光が丘ニュータウンの中心部… などという日常が、あるいは繰り広げられていたかも知れない。 ひょっとすると池袋発の直通「KCライナー」なんてのが走っていて、家路を急ぐ通勤客の足になっていた可能性もある。 ただしそれは、かつて戦後の一時期に存在した東武啓志線が存続していたらばの話である。
ご存知の通り、光が丘一帯は陸軍の成増飛行場を接収した米軍が戦後に築いたグラントハイツの跡地、そこを返還後に再開発したニュータウンである。 ここへ通じていた上板橋からの支線「啓志(KC)線」も軍人家族を運ぶために突貫で作られたもの、その歴史は今やいくらでも詳しいサイトがあるのでそれらに譲るとして、最近の廃線跡はどうなっているのだろう。
そんな思いで上板橋駅の狭い南口に降り立ったのは、弥生3月好天のある日。 そろそろ桜の蕾も膨らみ始める頃だが、その勢い以上に花粉が猛威を振るっているので眼鏡にマスクの重装備は外歩きに欠かせない。 今日は徒歩での探索であるが、啓志線は全線で 6.3kmの距離なので少し頑張って歩かねばならない。 しかしこの距離は枝線も含めてのものなのか、終点付近まで地図上で測ってみた限りでは実際の所もう少し短いようである。
池袋から準急に乗ってしまい成増まで乗り越すという失態を演じつつ、朝10時過ぎの上板橋駅に着いた(photo-1)。 駅前はとても狭くロータリーすら無いが、正面は商店街が続いているようで目の前に「上板南口銀座」のゲートが立っている。 人影の少ない階段下の丸いベンチではお年寄りが一人、文庫本を広げて読書の最中だった(photo-2)。 線路沿いの路地を進んで踏切に出る(photo-3)。 車の流れの合間を縫って通りを渡ると、その先で道は左へカーブしつつマンションの脇を抜けて行く。 啓志線は東上線から分かれると、このマンションの敷地あたりを通過して行ったようだ(photo-4)。
その先で線路跡は旧川越街道を横切るが、そこにかかる北一商店街のゲート下あたりに啓志線が敷かれていたようだ(photo-5)。 ここは旧街道だけあって大変由緒ありそうな商店が所々に残っていたりする(photo-6)。 線路は住宅地の中へと入って行くが、おそらく当時は一面の畑だったことだろう。 道路と交わる区割りが斜めになっている箇所が所々見受けられるが、線路跡を示すものだろうか(photo-7)。 やがて広い車線の川越街道へ突き当たるので、信号の変わるのを長いこと待ってようやく次のエリアへと進む(photo-8)。
そこから先も、しばらくの間線路跡は住宅街の中を行く(photo-9)。 この付近に当時あった踏切の写真が練馬区のサイトの中で紹介されている(photo-10)。 右にゆるくカーブすると環八通りに突き当たり、陸上自衛隊の練馬駐屯地へと吸い込まれて行く(photo-11)。 ここまで敷設されていた引込線が戦後にグラントハイツ方向へ延伸され、啓志線となったそうだ。 当然ながら許可を得ないと敷地内へは入れないので、ここは周りを迂回して駐屯地裏手へと進む(photo-12)。
駐屯地の裏手から出て来た線路跡は、建て込んだ住宅地の中にポッカリと空いた駐車場の敷地を通過して行く(photo-13)。 その先で左へカーブを切ると、しばらくの間は暗渠となった田柄川に沿って、線路はその若干北側を抜けて行く。 このあたりは痕跡ももはや残っていないだろうと思われるので、緑道となっている田柄川の上を歩いて先へ進むことにしよう(photo-14)。