途中で地下鉄有楽町線と交差する箇所を見に行ったが、啓志線が残っていればひょっとして乗換駅が出来ていたかも知れない(photo-15)。 北町7丁目あたりで交差する都道は「ハッスル通り」と名付けられているらしく、商店会の看板が目に止まった(photo-16)。
緑道は道路中央に位置していてその左右を車道が走る構造だが、途中で唐突にその役割が入れ替わる。 歩道を歩いていたつもりが交差点を越えたらいきなり車道に出てしまい、少々面食らった(photo-17)。 そろそろ桜のシーズンだが、沿道には民家の庭先に梅の花が今を盛りと咲き競っている(photo-18)。 ポカポカとした良い天気で、花粉を除けばお散歩には快適な気候だ。 親子の遊ぶ小公園の敷地(photo-19)を過ぎると、その先あたりが枝線の別れていった分岐部となる。 光が丘の中心街も近くなり、行く手には現在のランドマークとなる清掃工場の高い煙突が見えて来た(photo-20)。
本線から脇道へそれ、少し枝線跡の方を探索してみよう。 といっても、ここも痕跡が残っているわけはなく、ようやく見付けた畑地に僅かに当時の面影を感じるばかり(photo-21)。 ストリートビューで目星をつけていた路盤跡が残っていそうな空地も、すっかり整備されて新しい住宅や家庭菜園となっていた(photo-22)。 一番北側の側線は他の線から少し離れ、光が丘公園の凹み部へ突っ込むように終わっていたが、その付近は今では食品会社やマンションとなっている(photo-23)。 せっかくなので光が丘公園の中を少し歩いてみたが、休日という事で多くの親子連れが遊ぶ公園内の広場はとても活気に満ちていた(photo-24)。
その他の枝線は主に田柄高校の敷地とその隣の団地建物あたりに位置する(photo-25)。 また本線の方は田柄緑道の道から少し南へそれて、光が丘秋の陽小学校(photo-26)および光が丘第四中学校(photo-27)の敷地あたりで終点になっていたようだ。 当時の駅もこの付近にあったそうだが、既に開発されつくしていて実際の場所は良く分からない。 歩道橋に登って眺めれば、もうすぐ目の前に光が丘の高層団地群が私を見下ろすように並んでいた(photo-28)。
もしも啓志線が今に残り、東武が団地内へ乗り入れていたらどうなっていただろう。 きっと多くの乗客達が始発駅から快適に池袋方面へと通勤して行ったのではないだろうか。 地下鉄出入口しか無く何となく物足りない駅前ロータリーの風景(photo-29)、かつての滑走路を模したとも言われるプロムナード(photo-30)を行き交う人達を眺めながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。
参考
- 「消えた啓志」(トワイライトゾ~ン メモリーズ / ネコ・パブリッシング発行)
- 「東武鉄道啓志線のこと。」鉄道ホビダス 編集長敬白
- 「啓志線について考察してみる。」板橋ハ晴天ナリ。