序章
今年は諸般の事情により夏の恒例一人旅がお流れになったので、この年末に来て少々鉄分が欠乏ぎみになって来た。 それで、どこか電車に乗ってブラリと出かけてみようかと思う。 行き先は…そうだな、計画していた東北方面はとりあえず後にとっておくとしてどこにするか。 例によって行った先で特段何をするでも無いが、なるだけ長い間列車に揺られて車窓を楽しめる線というのを命題として頭に置いてみる。 答えはCMを待つ間もなくすぐに出た。飯田線しかないじゃん。
ご存知の通り、超長大路線にして極端に駅数の多い飯田線。 それはその生い立ちとして豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電鉄等多くの私鉄により敷設されたという事が大きいが、何せ全線195.7kmの間に94もの駅があるのだ。 これだけ多くの駅があれば、充分過ぎる位、列車旅を満喫出来る筈だ。 山岳地帯を危うげな細い線路で貫いてゆく沿線風景も、一人ぼんやりと車窓を楽しむには最適だろう。 早速どれ位の時間がかかるのか、その起点である豊橋駅から終点辰野駅までをルート探索でサーチしてみる。
何なに?豊橋からこだまで名古屋へ行って「ワイドビューしなの」に乗れって?中央西線周りだな、これ。 条件指定で新幹線と特急を外さないとダメか。 さてもう一回… え?新快速で金山乗り換え、中津川行きの快速??だめだこりゃ… 結局、距離順に並べる強制措置をして何とか検索結果が出るようになったが、何せそういうトコである、飯田線は。 日に一本の直通列車に乗っても6時間半ほどかかるのだ。 特急を乗り継いで迂回した場合の倍くらいの時間である。
そんな飯田線、実は学生の頃、辰野から豊橋へ向かって全線を各駅停車乗り継ぎで旅した事がある。 いわゆる傷心旅行ってやつでその時の車中メモも残っているのだが、時代を経て読み返してみると、これが何だかやたら青臭い文章で我ながら恥ずかしくなって来てしまう。 その当時はまだ旧国が最後の活躍をしていた頃で、辰野から乗車したのは半流のクモハ52、ニス塗りの車内に感激したとの記述がある。
それ以前には、ボーイスカウトで中央アルプスの駒ケ岳へ登った時、行き帰りに駒ヶ根まで飯田線に乗った事もあったっけ。 電車は確か急行「こまがね」で165系か何かだったと思うが、帰りに辰野に停車後、客を乗せたままいきなりバックし出して驚いたのをおぼえている。 今思うと、松本方面から来た「アルプス」のお尻に併結するために転線したのだろうという推測が成り立つ。 肝心の駒ケ岳登山は、悪天候により頂上直前で退却するという残念な結果だったが、それもまた印象深い思い出として心に残っている。
そんな青春期のショッパイ記憶に彩られている飯田線、今回は豊橋から下り電車で辰野へ向かってみようと思う。 そのためには豊橋あたりに前泊して朝一番で行動を開始したい。 となると、前日に浜松~豊橋近辺の私鉄にも少し乗れるのではないかという欲が出る。 遠鉄、天浜線、豊鉄渥美線・市内線などもからめると、これはなかなか良い前日オプションとなりそうではないか。 三河、遠江、南信州、まとめて「三遠南信」と呼ばれるこれらの地域をめぐり、電車を乗り継いで行く旅に出よう。
旅立ちの日… なんて書くと、たかだか一泊程度の小旅行には大げさな表現だが、日の出の遅いこの季節にあまり早起きもしたくないので、朝の通勤時間帯が過ぎ、電車の空いて来る頃合を見計らって家を出た。 今日は金曜である。 有休を使って平日に出立する贅沢を味いつつ、何かフワフワした気分で東京駅からこだま号自由席の客となる。 そう、遅起きで余裕の理由は新幹線。 まずは遠州鉄道に乗るために、浜松へと向かうのだ。
飯田線を訪問するにあたっては冬の青春18きっぷを購入した。 夏版に比べて利用期間が短いのであまりお得感が無いが、東海道本線、飯田線、中央本線をグルリと周って来れば、とりあえず一回でも元は取れそうだと考えたのだ。 ところが、前日オプションをあれこれと詰め込んだ結果初日は過密スケジュールとなり、往路を新幹線でワープするしかなくなるという本末転倒な事態になった。 まぁ本日は私鉄ばっかり乗るのだし、18きっぷは明日使えばいいかと考えて東京駅で新幹線の切符を別購入した次第だ。
こだまに乗るのは久し振りだ。 東京から大阪方面へ向かう場合、大体はのぞみかひかりで間の駅をすっ飛ばしてしまう事になるが、今日は違う。 新幹線の各駅停車でのんびりと行く事にしよう。 乗り込んだのは700系編成の14号車、どうせならそろそろ先の見えて来た300系に乗っておきたかったが、なかなかそう都合良くはいかない。 車内は閑散としており、乗車率は10~20%程度だろうか。 さすがに平日のこととて、ビジネス客がほとんどのようだ。
発車して品川、新横浜と人の出入りが多少あったが、その後は乗客も落ち着き、車内は静か。 通路にも人通りが無くなり、3人掛け一番窓側の席で心地良い揺れに身を任せて少しウトウトとしていると、前の方から爽やかな女性の声が聞こえて来る。 各駅停車とはいえ、車内販売がちゃんとまわって来るのは、さすが新幹線。 目を上げると、ワゴンを押した売り子さんがデッキから入って来たところだ。 彼女は、遠くから私を見てニッコリと笑顔を見せた。 …ような気がした。
スマイルを貰って何か協力してあげたいところだが、残念ながら乗車前に購入したコーヒーとチキンサンドがあるので用は足りている。 それから車内販売は何度か往復して行ったが、心なしか私の前で毎回ゆっくりと進むような気配だ。 自分が何か物欲しそうな顔でもしていて、それに気をつかってくれているのだろうか。 思いついて、私は前の背もたれからテーブルを出し、しまっておいたパンとコーヒーをそこへ置いた。 さあどうだと身構えていたのだが、それきり売り子さんはやって来なかった。
天気は快晴で気持ちの良い青空の下に、遠近法を絵に描いたような地上の風景が高速で流れていたが、西へ向かうにつれてやや雲が多くなって来た。 箱根を過ぎて右手に見え出した富士山も、今日は中腹に少し雲を纏っている。 電車は小田原で2本、三島、新富士、静岡と後続計5本に道を譲って次々と抜かれつつ、それでも駅間は新幹線らしいスピードで小気味良く飛ばして定刻12:24に浜松駅ホームへと滑り込んだ。 テーブルに置いたチキンサンドはそれより前、掛川を過ぎたあたりでつつがなく私の胃袋に納まった。