夕暮れの大通りをゆっくりと電車が進んで行く。 1台、2台、3台… 肉眼で確認出来るのだけで7台ほどはいるだろうか。 それぞれの交差点際にある電停には 2列車が同時に停車中の所もある。 こんなに多くの電車が見通せる光景は初めてだ。 観光の手軽な移動手段として、そして市民の大切な生活の足として根ざしている路面電車はまことに元気である。
広島湾に流れ込む太田川が運ぶ土砂が堆積した三角州の上に形成された広島の市街地、その中を縦横無尽に走り回り市民生活の足となっているのが広島電鉄の路面電車だ。 その路線網は国内屈指の規模を誇り、また宮島口へと伸びる専用軌道の宮島線は都市間連絡のインターアーバン的な性格も合わせ持っている。 ある夏の日、私はゆっくりと一日かけてそれら「広電」の全路線に乗ってみる事にした。
大阪に前泊したので、この日は新大阪からひかり493号広島行きに乗車。 これは日に一本だけの新横浜始発という珍しい列車。 何でも新幹線は6時前に電車を走らせてはいけないという規則があるらしく、東京、品川、新横浜からそれぞれ6時きっかりに3本の始発列車がよーいドンで発車するのだ。 広島着は10:01で、一日乗り回しの時間的にはまずまずのスタートとなった。
まずは駅前広場の広島電鉄「広島駅」電停へ向かう。 駅は頭端式4面3線だが途中で分岐している変則構造で、JR駅に面した側2箇所が乗車、道路側が降車専用だ。 その一角にある自動券売機で「電車一日乗車券」600円を買う。 このカード一枚で市内線・宮島線が一日乗り放題というお得な切符である。 まずは6号線の江波行きに乗車。 やって来たのは 800形、広電オリジナルの車両で単車の中では総勢14両の多数派だ。
乗車時に少しまごついたが、広電の電車は ICカード用のタッチ式とカードを通すタイプのリーダーが入口のステップを上がった所に並んで設置されている。 広電では PASPYという IC乗車カードが使えるが、一日乗車券の方は旧来の磁気カードだからリーダーが 2種類必要なのだ。 それに加えて一般の現金で乗車する客の為に整理券発行機を備えている車両もあるのだから、入口付近はなかなかにゴチャゴチャしている。
電車は駅前を出て川を渡り、右に折れて相生通りを進む。 車内は満員であったが八丁堀や紙屋町東の電停で多数が降車。 原爆ドーム前を通過し、十日市場交差点で南へ折れ、土橋で本線と分岐してからは車内も見通せるようになって来る。 舟入南町で残り一人の客も降りてしまい、そこから終点までは貸切状態となった。 終着の江波電停は道路端にポツンと屋根の無い短いホームが一つ。 少々中途半端な位置にある終点だが、当初の計画ではこの先の海岸にある三菱重工の工場まで延びる予定だったという。 初めてなので緊張気味に運転士脇のリーダーに一日乗車券を通したが、無事、何事もなく降りる事が出来た。
江波の終点は正面に見える江波皿山に抱えられるような形で、その麓に車庫を擁している。 乗って来た電車はホームの先にある道路を渡って車庫に引き揚げて行く。 その線路端では中年の男性が一人、そして母親と一緒の小学生位の男の子がカメラを抱えて待っていた。 前を通過して車庫の横手に周って行くと、彼らのターゲットである車両が敷地内の一画に出番を待っているのが見えた。 それは通称「大正形電車」と呼ばれている100形、創業時の 2軸単車を模して造られたレプリカ車両だ。 広島電鉄のサイトではこのレトロ電車の運行予定が公表されているので、勿論わたしもこの時間に合わせてやって来たという次第だ。
ホームへ戻りしばらく待っていると、車庫の入口に誘導旗を持った職員が立った。 いよいよやって来るなと思う間もなく、奥手から100形がゆっくりとその顔を覗かせる。 行先表示は毛筆書体で「横川~江波」となっている。 江波と横川駅の間を往復する 8号線の列車だ。 静々と停留場へ入って来た車両、ダブルルーフの屋根に木製風の側板は、一見しただけではとても昭和の末期に新製された車両とは思えない。 車掌の案内に誘われてオープンデッキのステップを踏み、車内に入る。 室内も木目調の天井や吊革、照明などもなかなか凝った造りで良く再現されている。
グァグァと吊り掛けモーターの音を響かせて発車。 スピードがのって来ると4輪単車独特の激しい揺れにみまわれる。 でも乗客は何だか皆、愉快そうに笑いながら顔を見合わせている。 車内はもちろん冷房なしであるが、走っている間は全開した窓から入って来る風が心地よい。 交差点で停車するたびに、観光客でもなさそうな地元の通行人が、携帯やスマホのカメラをこちらへ向けて来るのが愉快だ。 土日の午前中限定で二往復しかしないのだから、そのレア度も相当なものである。
シニアで味のある風体の車掌さんは、停車するたびに電停で待っている客に「ご乗車ありませんか?」と丁寧に声をかけている。 こんな見た目だから、観光用の特別列車で一般客は乗れないと勘違いしてしまいそうなのだ。 但しこの電車はタッチ式のリーダーが未整備で、ICカードが使えない。 停車する毎にその説明もなされるが、それを聞いて後続を待つ客もいるようだ。
途中、信号待ちで長時間停車になると、デッキにいる若手らしき運転士さんは後ろから熱いまなざしを送る少年に機器の説明などしている。 100形は冬は走らないが、車掌さんの話では暖房の設備がないからというのがその理由だという。 最後まで客が 5~6人を上回る事はなかったが、ひとしきり働いた電車は終点の横川駅電停ホームにゆっくりと停車し、体を休めた。 私は後部側のデッキから降りたが、リーダーがホームと反対側にあるので、車掌さんがカードを受け取って代わりに通してくれた。