やがて行く手に、圏央道の灰色の帯が街道の上を横断しているのが見えて来ます(写真29)。 その手前が小谷田のバス停になり、場所は定かでありませんが、馬鉄の小谷田停車場もこのあたりにあったようです。 高速の下を潜ると、右手から蛇行して来た霞川を古びたコンクリート橋で渡りますが(写真30)、ここは地図だとどうも道路の左手に専用の木橋を渡して通過しているようにも見えます。 その先でもう一本の高架道路橋の下を抜けますが、こちらは国道299号の入間飯能バイパスです(写真31)。
それはそうと先ほどから気になる老人が一人、目の前を自転車で走っています。 そのお爺さんは、西三ツ木の公会堂の所で自転車を止めて一服していたのですが、先に走り出した私が写真を撮るために停車する度に、後ろからヨロヨロと走って来て、ファインダーの中を通過して遠ざかって行きます。 けっこう車道寄りを走っているので見ていて少しハラハラしますが、かえって車が大きくよけて行くので本人は悠然としています。 ほとんど歩くのと変わらないスピードで確実に進んで行きますが、きっと馬車鉄道の客車もこの程度の歩みだったのかも知れません。
段々周囲は民家が多くなって来ますが、街中に入る前にもう一本、大河のような道路を越えなければなりません。 そこは国道16号の交差点「扇町屋」(写真32)。 大型車がバンバン行き交うこのバイパス道路ももちろん、当時は存在していませんでした。 長いこと信号が青になるのを待って交差点を抜けると、ようやく扇町屋の街中へと入って行きます。 実は、このあたりの街道左手に中武馬車鉄道の本社があったとの事ですが、小広い駐車場となっているあたりの区画がどうも怪しげですね(写真33)。
ところでここに何故本社があったか? そもそもこの馬車鉄道の発起人の一人でもあり、初代社長となった横田伊兵衛氏の地元がここ豊岡町であった為と考えられます。 江戸時代、この豊岡町扇町屋は日光脇往還の宿場町として栄え、八王子千人同心が東照宮の警備に向かう際に利用した昼食地であり、帰路は宿泊地にもあてていました。 また甲信方面からの荷物を中継して、入間川、新河岸川経由で川越へと送る輸送ルートの要衝でもあったのです。
それが時代が変わるとこのルート上の村々は、青梅鉄道(現JR青梅線)や川越鉄道(現西武新宿線)から遠く隔てられた鉄道の空白地帯となってしまった為、住民は非常な危機感を持つようになり、その間を結ぶこの馬車鉄道が計画されたわけです。 当時、武蔵野鉄道(現西武池袋線)は敷設前だった為、青梅へ出るにも入間川駅に出るにも、不便を強いられていたわけです。 ちなみにその時の副社長は、青梅で酒造業を営んでいた岡崎武右衛門。 岡崎氏は後に社長になりますが、あの青梅森下の酒屋さんの住所が中武馬車鉄道の青梅支店の住所と一致するとの事です。
そこからもう一分と間をおかず、道は扇町屋三丁目交差点で日光脇往還と斜めに合流して、宿場町の中へと入って行きます(写真34)。 ここの角に以前は交番があったのですが、最近になって撤去されてしまったようですね。 探索した日は跡地にパイロンが並んで、何やら工事中の様子でした。 扇町屋の街中はツーリングの行き帰りに何度も通過していますが、さすがかつての宿場町という感じで、由緒ありそうな大きな店が随所に軒を並べています(写真35,36)。
扇町屋の入り口となる上町には、ここまで走って来た豊岡街道と、日光脇往還、そして地図上でもう一本青梅の方から来る道が合流した所に小さな祠があり、道標が建っています(写真37)。 その説明板によるとこの宿場町は、宿の長さ六丁、道幅八間余、戸数九十軒、左右に軒を連ね、三・八の日ごとに米穀などの市が立ち、近隣随一の賑わいを見せていたと言います。 道標が建てられたのは安政3(1856)年なので、馬車鉄道が走るよりさらにさかのぼる事45年ではありますが。