◆ 風雲急の武州鉄道 ◆

 − 以前、「夢に終った鉄道たち」でいくつかの未成線をとりあげましたが、今回はその中で武州鉄道にスポットをあててみたいと思います。武州鉄道というとかつて埼玉の蓮田あたりを走っていた鉄道が有名ですが、こちらは多摩地域に走っていたかも知れない鉄道のお話。これはその免許をめぐり、当時の政治家をも巻き込んだ戦後最大の疑獄事件にまで発展したので、ある程度の年代以上の方はご存知かも知れません。


◆ 敷設計画の概要

 そもそもこの免許を申請したのは滝嶋総一郎という人物で、戦後スクラップを転売して財を成した新興実業家。だが、鉄道経営に関してはズブの素人だったそうな。で、申請したのが 三鷹〜小金井〜小平〜大和〜箱根ヶ崎〜東青梅〜名郷(名栗村)〜根古谷(横瀬村)〜御花畑(秩父市) 間、60.3km という壮大なプラン。これを、総工費わずか 41.5億円で完成させようというのだから傍目にもずさんな計画だ。ちなみにほぼ同時期に免許を得た西武秩父線は武州鉄道の 1/3の距離、全線約19kmだけで 80億円かかっている。
 敷設の目的は、武蔵野市西北部のベッドタウン化による通勤混雑緩和、青梅地区の工業市街地形成、秩父多摩国立公園の観光開発、セメント他の地下資源輸送など、この辺はわりと納得出来る内容が列挙されている。

Map

◆ 免許までの経過

 計画の発端は 1958(S.33)年、滝嶋が関係財界人や沿線市町村長を集めて発起人総会を開催し総代に選出された事から。翌1959年に計画書を提出し、免許を申請する。発起人には元国鉄総裁や埼玉銀行頭取、大映社長などの政財界人も名を連ねていた。また申請直後に「白雲観光」という姉妹会社を興して用地買収を開始し、計画は順風満帆、順調に推移するかに思えた。
 だが事はそう簡単には運ばなかった。既に武鉄に先行して1957(S.32)年に吾野〜西武秩父間の免許を申請していた西武鉄道は、これが認められては死活問題。武蔵野地区において西武バスと路線が競合する等の理由で、計画に反対の陳述書を提出する。また沿線住民の一部から騒音や事故を心配した反対運動もおこり、計画は窮地に追い込まれる。
 この頃までに滝嶋は、政界と繋がりのある発起人に資金を渡して工作を依頼したり、運輸大臣の楢橋渡を接待し賄賂を渡すなど強行な経営で突き進んだため、これを見かねた埼玉銀行は発起人会から脱退。白雲観光からは滝嶋社長が追放される事態となり、一方で西武には 1961年に秩父線の認可がおり、これで武鉄計画は水泡に帰したかに見えた。

◆ 疑獄事件へと発展

 ところがどっこい、これが 1961(S.36)年の夏、免許になってしまった。申請から僅か 2年半という異例の早さで、しかも直前に免許となった西武との競合路線。滝嶋の裏工作が功を奏したのは言うまでも無いが、当然これを当局は疑問視して捜査に入る。結果、青梅地区での用地買収にからむ贈収賄に端を発し、後は芋づる式に不正が暴かれ、最終的には元運輸大臣の楢橋まで含め総勢 18人が逮捕される大汚職事件となった。逮捕直後の当時の新聞には、以下の様な見出しが躍っている。

 追及うける武州鉄道 "免許が早すぎる" 多額の使途不明金も (S.36年9月9日読売新聞より)

 免許が交付されてからわずか 2日目の逮捕、きっと捜査は先行して秘密裏に進んでいたのだろう。結局、埼銀や財界関係者は無罪となったが、8名が起訴、滝嶋と楢橋には実刑判決が下されて幕となる。これにより武州鉄道の計画は無期延期となってしまった。

◆ 沿線地域への波紋

 さてこの計画が沿線に投げかけた波紋も少なからずあった。武州鉄道の建設に伴う沿線開発の名目で、大和町(現在の東大和市)内には団地の開発計画が持ち上がった。予定では、西部,中央,東部団地の 3つで、免許申請直後から大和町内には「武州鉄道協力会」が組織され、用地買収が積極的に行なわれた。これにより、活動1ヵ月余で約7万5千坪の農地が団地用地として売買契約され、通称「武鉄団地」は準備万端整っていたのだが... 鉄道計画もろとも崩れ去る結果となった。
 結局この計画用地は最終的に都が買い上げ、現在は西から北多摩西部消防署、上北台団地(一部)、東大和高校、東大和市役所、第一光ヶ丘団地、等となっている。

◆ 日本で初の!?

 そして最後に、武州鉄道は日本初の・・・になっていたかも知れないというお話。この点に関してはあまり書かれている資料を見かけないのだが、前出の読売の記事から少々引用してみよう。

 日本で最初のモノレール式電車の実現を夢に、武鉄の建設にあたった"立て役者"が滝島氏。(注:"島"は記載通り) 当局では事件のカギを同氏がいっさいにぎっているものとみて、一千万円の業務上横領容疑をあしがかりに金の流れを追及しているが、いまだに核心にふれる事実についてはなんら供述していない。 (S.36年9月9日読売新聞より)

 そう、滝嶋の考えていた計画は「武州モノレール」だったのだ。武鉄の計画が出願された 1959年当時、モノレールと言えば上野動物園の懸垂式(1957年)が開業していたぐらい。羽田空港への東京モノレールは 5年先の 1964年開業だから、時期的にはおそらく計画段階あるいは着工されていたはずで、これらに触発されていたのかも知れない。方式としては跨座式を考えていたようで、はるばるドイツのアルヴェーグ(ALWEG)社へ視察に行ったりもしている。
 もっとも、滝嶋が最初からモノレールを志向していたかというとそうでもなく、当初は普通の鉄道として申請していたようだ。事実、「勝手に起点や方式の変更を発表されて困っている」という主旨の運輸当局側のコメントが載っている。何と起点すらその後、申請した三鷹から吉祥寺へと独自に変えた計画を発表していたのだ。
 ちなみに吉祥寺は彼が成功した財産で自分の会社を設立し、地上六階建ての「吉祥寺名店会館」(現在東急百貨店のある場所)を作り上げたいわば本拠地。ひょっとしてひょっとすると、ここらに秩父行きモノレールの駅ビルが出来ていた可能性も... いや、全線60k余の山岳モノレールは、どう見ても現実味のある話とは思えない。どこまで本気だったのかはわからないが、この武州鉄道、滝嶋にとって少々遊びの過ぎた、仮想鉄道だったと言えるのかも知れない。

参考:

 − 実はあえてこの武州鉄道を取り上げたのには少しワケがありまして、地図上でこの計画の経由地をなぞって行くと...アレ!?我が家の玄関前(というのは少しオーバーですが)を通過して行くのです。万が一これが開通してたら、さぞや便利だったろな〜と思ったわけです。乗り換え無しで三鷹、あるいは吉祥寺まで一直線。さらにJRに乗り入れ、新宿や東京駅まで直通!もちろんモノレールだったら所詮無理な話ですが、普通の鉄道なら可能性はあります。また、鉄道の無い市として有名な武蔵村山にも、めでたく線路が通る事になります。
 現在は、青梅線、八高線、西武線と乗り継いで行かなければならない秩父方面も、電車一本で私にとってはぐっと便利に。きっと自転車であちら方面へ輪行する機会も、今よりはもっと増えていた事でしょう。

 ●K.I.さんからお便りを頂きました。>>武州鉄道の思い出
ButtonBack to Rail Page