中央線の浅川駅と聞くと「ん?」と首を傾げる方も多いだろうが、これは開業当初の高尾駅の名前。その頃の所在地名が東京府南多摩郡浅川村だったからだそうな。
この浅川駅にまつわる廃線というと、かの武蔵中央電鉄が甲州街道上を現高尾山口駅近くの「高尾橋」まで走っていた事が思い起こされる。
しかしもう一つ、浅川駅から南へと伸びる廃線跡が存在する事になっていたかも知れないのだ。まわりくどい書き方をしたが実はこの線路、結局開通前に建設が中止されてしまった、いわゆる未成線なのだ。
太平洋戦争末期、密かにこの地に建設された陸軍浅川倉庫は山腹を縦横に掘り込んだ地下壕であり、大本営となるという話しもあったが、その後計画は変更され、中島飛行機の地下工場として引き継がれた。
この地下壕へ向かって浅川駅から専用線の敷設工事が行なわれていたが、敗戦により工事は中止となり、路盤跡は放置された。結局レールを敷設するまでには至らなかった様だが、山裾をまわる築堤跡などの一部遺構がまだ残っているという事で、現地を訪れてみた。
広い高尾駅構内。引込線はこの砂利地あたりから分岐するはずだったのだろう。 |
町田への線との分岐点はこのあたりか。当時はもちろん京王線は走っていない。 |
見えている築堤はみころも公園のものだが、なんか雰囲気が出てる。 |
左手の崖中腹で工事が行なわれたらしいが、何せこの茂みは全てを覆い隠している。 |
グランド裏手に一段高い段差が見られる。果たしてこれが。。。 |
線路は画面右手から来て中央奥へ。この先は霊園施設で、地下壕入口もその中らしい。 |
しかしこの引込線、実に不自然な曲がり方をしていると思うのは私だけだろうか。本来ならば浅川駅の西側から、そのまま地下壕へと向かっても良いはずだ。
それをわざわざ一旦東側へと引き出しておいて、180度のカーブを描いて目的地へと向かわせている。その理由は何か?
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実際にはそれぞれの理由が重合していたのかも知れないが、4.は、分岐部をカムフラージュすれば爆撃機からの視線は町田街道沿いの線路に集まるし、地下壕へと向かう方は山裾を通っているので、あまり目立たない。そういう思いが、多少ともどこかにあったのではないだろうか。でも結果として、米軍撮影の航空写真からは丸見えだった様だが。
なお、地下壕は現在一般公開されていないが、下記保存会にて非定期に見学会の開催される場合がある。多摩地区における貴重な負の遺産として、その存在の意味するものを感じてみるのも良いだろう。
さて専用線自体の遺構としては捗々しい収穫のなかった今回だが、往復で迷い道をしている最中に色々と面白いものを見付けた。ちょっと気分を変えて「八王子廃なもの 4」でご紹介します。