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 皆さんはその昔、中央本線高尾〜相模湖間に、小仏信号場があったことをご存じでしょうか。場所は、東京都八王子市裏高尾町。周囲を山に取り囲まれ、小仏トンネルの入り口に程近い、谷地となった狭い所です。
 この付近で中央本線に寄り添う道は、明治の中頃までは甲州街道の峠道として多くの旅人や商人が行き交っていましたが、大垂水峠が開削されると、その険しい峠越えの旧道はひっそりと静まり返り、今に至るまでひなびた風情を漂わせてきたのです。
 当時の中央本線の甲府までは、山岳路線であることから早くに電化されていました。しかし、まだ高尾から先はすべて単線で、列車を増発する必要があるときに、駅間距離の大きいこの区間がダイヤ上のネックとなってきたものです。
 これを改善するために、昭和27年7月に、この場所(当時は東京都南多摩郡浅川町上長房)に信号場が開設されました。東京起点では57.4kmにあたり、浅川駅(昭和36年に高尾へ改称)からは4.3km、与瀬駅(昭和31年に相模湖へ改称)へは5.2kmとなり、小仏トンネル(現在の上り線)の入口までわずか150m程の所でした。
 この信号場は当初、単線の線路に於ける非自動閉塞区間の境界として設置されております。単線で列車交換ができませんから、続行列車を出発させるために、ここの乗降台で、徐行で通過する列車からタブレットの授受を行っていたことになります。
 地元住民の証言に拠りますと、一部の上り列車は国鉄職員の乗降のための運転停車を行っていたようです。(この時、住民の便宜乗車もあったようです。のどかな時代でした。)

Map  それからしばらくして、昭和32年12月に、列車の交換設備が完成して、信号場は浅川方へ0.2km移転しました。東京起点では57.2kmにあたります。
 信号場の移転理由としては、浅川〜相模湖間の複線化工事の中心である、新小仏トンネル(現在の下り線)の掘削工事の用地確保のためと考えられます。また、当時は、並行している小仏川がこの付近(57.4km)だけ下り線側にあり、線増工事のためにはこれを上り線側に移す河川改修工事の終了を待つ必要があったと推測されます。(これは、隣接する旧甲州街道や家屋の移転を伴なう、谷地特有の手間のかかる工事でしたが、この時すでに終了していた可能性もあります。)
 そしてこのときに、木造の対向式ホームが設置され、小仏駅が開業したのです。しかし、すべての列車が停車していた訳ではなく、一日に上下3本ずつが朝と昼と夕方に停車するのみでした。もちろん、列車交換や職員の乗降のための運転停車はありましたが、元々タブレットの授受で徐行通過することから、停車せずに最徐行の状態で職員の乗降を行なう場合もあったようです。
 ところで、通常はこの時点で、「信号場」から「駅」に名称が変更されるのですが、小仏は「信号場」のままでした。このように、信号場でありながら駅として営業すること(信号場における旅客の乗降取扱い)は、当時は全国的にも珍しいことではありませんでした。

 そのあと、浅川〜小仏信号場〜相模湖間の複線化工事が着手され、昭和37年4月に高尾(浅川から改称)〜小仏信号場間が、先に複線となりました。
 さらに、新小仏トンネルが竣工して、東京オリンピックの開催に合わせるように昭和39年9月に小仏信号場〜相模湖間も複線となり、信号場は役目を終えて(自動閉塞区間化したため)廃止されたのです。(東京オリンピックでは、相模湖がカヌー競技の会場になりました。ちなみに、高尾駅ホームの中央跨線橋はこの時に増設されたものだそうです。)
 そして、この時までに「駅」も廃止されたのです。駅の廃止理由はもちろん、利用者僅少のためでした。その廃止にあたっては、国鉄関係者と八王子市と地元自治会による協議が行われ、バス路線の誘致(もしくは延長)が合意の条件となったようです。
 なお、この頃に中央線高尾以西の自動信号化工事が行われておりますが、残念ながら高尾〜相模湖間の自動信号化の時期が判明しておりません。もし、単線時代に自動信号化工事が完了していた場合には、タブレット交換が必要なくなりますので、ホーム設置の拠り所がなくなり、昭和37年4月の時点で「駅」が廃止されていた可能性があります。また、八王子市議会史の年表にも、昭和37年に「駅」(信号場における乗降取扱い)の廃止があったとすることを有力視させる記載があります。

 さて、題名にある『小仏信号場の謎』ですが、実は、この「駅」のホームが設置されていた付近は、25‰の急勾配区間にあたるのです。山岳路線である中央本線の高尾以西には、この25‰の急勾配区間がいたる所にあるのですが、その当時に、この勾配途中に駅が設置されている場合は、いずれもスイッチバック式の駅になっているのです。もちろん、それらのスイッチバック駅は古くに開設されており、車両性能なども同じ環境ではなかったわけですが、いずれの駅もその時点では、まだ現役のスイッチバック駅として機能していたのです。スイッチバック全盛のこの時代に、電化区間とはいえ、25‰勾配上にホームを設置していたことは、特筆に価するのではないでしょうか。
 あくまでも仮説ですが、電化区間において、他の駅でのスイッチバック方式廃止(運転時間短縮)に向けての、試験的な運用実績(列車の起動と停止、留置の実績)作りという、重要な任務を背負っていたのかもしれません。さながら、小仏は「900番代の駅」といったところでしょうか。皆さんは、どうお考えでしょうか。

 ところで、現在の小仏信号場跡はどうなっているのでしょうか。
 昔、「駅」があった所(57.2km付近)の入口の跡は、ちょうど京王バスの「大下(おおしも)」のバス停がある所となります。(終点小仏の一つ手前です。) 入口となる小仏川をまたぐ橋は、何も痕跡が残っていませんが、そこからの登り口の階段があった場所は、朽ち果てた枕木の柵がそのルートを示しております。そこを登った所は広く平らになっていて、現在は保線車両の横取り線があり、資材の積み降ろし作業に使われているようです。昔は、ここに保線小屋があったそうです。
 ここから、小仏トンネルの方に、旧甲州街道を移動します。すると、150mほどの所(57.35km)には、単線時代から使われている鉄橋が上り線だけに架かっています。これが、昔の単線時代には、そこからは小仏川が下り線側にあったことを示しています。
 さらに、進みます。57.4km付近は、初代の小仏信号場があった所ですが、何も残っていないように思われます。複線化(新小仏トンネルの掘削工事)や、河川改修(道路や家屋の移転を伴なうもの)で、地形が変わってしまっているようです。なお、下り線側には列車無線のアンテナらしきものが建っています。
 この付近は単線時代には、線路のすぐ横が旧甲州街道であったため、道路から小仏トンネルの入口を覗くことが出来たわけですが、今は小仏川に遮られています。
 しかし、ここまで来ますと、道路の方が線路より高くなっているので、周囲全体を見渡すことが出来ます。そこで、「駅」のあった方を振り返って見ましょう。
 すると、「駅」のあった所の下り線側には、線路より一段高くなった平らな「土手」が、ほぼ、水平に続いているのが、はっきりと確認できます。長さは、300m程でしょうか。土手の高さ(レベル:標高)は、トンネルの入口とほぼ同じように見受けられます。まるで、そこにスイッチバックの駅(水平な線路)でもあったかのように見えてしまいます。
 実は、これは、小仏トンネルの掘削によって発生した残土なのです。明治の中頃のことですから、自動車(トラック)も無く、手押しトロッコで運び出された土砂(ズリ)は、そのまま一番近い所へ捨てられていたようです。トロッコを使っていますから、土手が水平になるのは、ごく当り前のことでしょう。すでに100年以上も経っていて、表面はびっしりと雑草に覆われているのですが、実際にそこを歩いてみますと、ごつごつとした感触が足に伝わり、それが砕石100%であることが判るのです。

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残土の土手から見る57.2km付近(左が小仏トンネル方)

 これで、私の調査報告は終わりとなります。
 「小仏信号場」に関しては、文献がまったく見つからなかったので、予め、いくつかの年表の洗い出しを行った上で、現地調査を3回行いました。その際に、たまたま出会った3名の地元の方々から聴き取り調査を行うことができました。その成果が、今回の報告となったものです。
 信号場が新設された時には、南多摩郡浅川町。廃止された時には八王子市。ちょうど、郷土史にもなりにくいタイミングだったのでしょう。八王子市民である私も、何の知識も無かったのです。しかしながら、地元の方々の数々の証言によって、「駅」の存在や、トンネル残土による土手などの思いがけない事実が明らかになったのです。そのことにより、これをきちんと文章にして発表するべきではないだろうか、との考えに至った訳です。
 いろいろなことを教えてくださった地元の方々、そしてこの報告を発表する場を提供してくださったH.Kuma氏に、この場を借りてあつくお礼申し上げる次第です。

 最後に、この調査のベースとなった年表をまとめておきます。参考にしてください。

明治33年8月 小仏トンネル竣工
明治34年8月 中央線八王子〜上野原間開通
昭和6年4月 中央線浅川〜甲府間電化、電気機関車の運転開始
昭和27年7月 中央線浅川〜与瀬間に小仏信号場新設
昭和28年9月 中央線浅川〜塩山(甲府)間電車運転開始
昭和31年4月 与瀬駅を相模湖駅に改称
昭和32年12月 小仏信号場に列車交換設備完成
昭和34年4月 南多摩郡浅川町が八王子市に編入
昭和35年4月 中央線新宿〜松本間DC急行「アルプス」運転開始
昭和36年3月 浅川駅を高尾駅に改称
昭和37年4月 高尾〜小仏信号場間複線化
昭和37年12月 中央線笹子〜韮崎間自動信号化
昭和39年3月 中央線韮崎〜塩尻間自動信号化
昭和39年8月 中央線甲府〜上諏訪間電化
昭和39年9月 小仏信号場〜相模湖間複線化、小仏信号場廃止
昭和39年10月 東京オリンピック開催
昭和41年12月 中央線新宿〜松本間特急「あずさ」運転開始
昭和43年12月 中央高速道八王子〜相模湖間開通
昭和50年3月 中央線客車普通列車及びDC急行廃止、電車化
記  2004年3月   

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