イラスト:H.Kuma
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- Shuji Kamano -

京王線というと今は10両編成で八王子行きの特急が颯爽と走る路線であるが,私には京王電車という懐かしい名前の方が親しみがある.学校へ入ったのは昭和16年なので,たぶんその2−3年前に西参道から桜上水に引っ越したのだと思う.漢字は京王電車の駅名から覚えた.桜上水はまだ京王車庫前という駅名から変わったばかりであった.

電車はダブルルーフの14m車が主で,乗降口のドア内に1段ステップが付いていた.まだドアエンジンはなく手動だった.運転手は中央で立って運転していた.モダンなシングルルーフの401号から410号までの新車がその頃入ったが,はじめから電気ドアだった.大東急時代には2401から2410となった.他の車両は順々に電気ドアに改造中だった.500号という窓の上に飾りのある宮廷用と言われていた電車があって,下高井戸の駅で上りで行くのを見ると下ってくるのを待っていたこともある.

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起点は京王新宿で伊勢丹の先の新宿3丁目にあった.櫛形の4面3線の駅であった.そこを出ると今の明治通を渡り省線の線路を跨ぐ坂を上り,新宿駅甲州口の前にあった省線新宿駅前という停留所に停まる.安全地帯形式の低いホームで乗降口の下にさらに1段ステップが出るようになっていた.駅舎は省線とは反対側の橋上にあって切符を買うことはできた.次は新町で玉川上水の川の上に板張りの対向式ホームだった.さらに天神橋という島式ホームの小さい停留所があったが,昭和16年頃には廃止された.何処かの本で新町や西参道,幡代と一緒に廃止したように書いてあったがそれは誤りである.変電所の跡だけが残っている.

文化学院は新町と天神橋の間に丁度いっぱいになるように今は立っている.昭和17年最新大東京案内圖には天神橋は書かれているが,昭和21年東京都35區區分地圖帖戦災焼失區域表示では新宿駅は西口に移設されているがこの時期には廃止されていたはずのまだ新町,西参道,幡代は記入されているが天神橋は消されている.日本の私鉄11京王帝都の天神橋昭和20年7月廃止は誤りでそれより前に廃止されている.

その次の西参道は今は高速道路のジャンクションの下になっているところにあった.だから私の前に住んでいたところは高速道路の下になってしまった.西参道は神宮裏という駅名から改められたばかりで,西参道の通りを挟んで上下のホームがある路面電車スタイルだった.この形式は初台と上北沢がそうだったと思う.このあたりは線路が川に沿っていてカーブが多かった.今は玉川上水緑道に跡をたどることができる.

初台と幡ヶ谷の間でこの間まで代々木郵便局があったあたりに幡代という駅があった.ここと明大前は上下のホームをまたいでアーチ型の屋根のあるしゃれた駅だった.戦争中に電圧が下がって省線新宿駅の上の坂を電車が登れなくなり,西口に新宿駅が移った.国鉄は中央線緩行ホームが8番線で,小田急が9番線から12番線,京王線は13番線から16番線で板張りホームだった.駅の入り口の上には野猿峠,陣馬高原,高尾山と大きな看板が出ていたが,野猿峠は住宅街に飲み込まれてハイキングコースではなくなってしまった.

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新宿駅を出るとしばらくは甲州街道の真ん中を戦後は甲州街道が拡幅されたので専用軌道で走っていた.省線新宿駅前から最初の急行停車駅であった初台までの中間駅は幡代とともに廃止されてしまった.今は初台と幡ヶ谷も京王新線に移ってしまい,現在の京王線の最初の停車駅が笹塚であるのはまさに隔世の感がある.逆に新宿方向に向かう場合は,伊勢丹,三越,帝都座(今の丸井のところにあった映画館)など一群のビルが見えてくると新宿だという感じだった.まだビルはわずかしかなくスカイラインが低かった.今は都庁をはじめ高層ビルが聳えているが地下線なので見えない.むしろ笹塚あたりで新宿が近いなと感じるようになっている.

笹塚はもちろん平面で2面4線の駅で,駅の南側には車庫があった.旧型の先の細いオープンデッキの赤い色の電車が留置されていて,お祭りなどで混雑する時などに出場してきていた.代田橋はホームが延びただけでほとんど昔と変わらない.駅の南側に和田堀給水所があるためか周囲の景色もほとんど変わっていない.明大前は乗降客の増加で駅の規模が大きくなり,帝都線の時代に較べれば,乗り換え用の階段が増設されている.昔から駅の南側にあった自動車の教習所は2階建てに変わっているが,下りホームから見た感じは変わっていない.

明大前で下を通る帝都線の電車は運転席の前に庇が出ているスマートな電車で,運転席はコーナーにあり開放型で夜になると周りにブラインドをおろす形式だった.車掌室はなく,客室後部のドアに開閉ボタンが付いていて,そこで車掌が操作をしていた.永福町行きはチョコレート色に白抜きで渋谷永福町間,吉祥寺行きは白地に黒字で渋谷吉祥寺間と記したサボをつけていた.この線は3面3線だった渋谷駅と島式2線だった永福町と,高架になった高井戸駅,一つになった駒場駅と東大前(一高前)駅以外は大きな変化はない.井の頭公園や吉祥寺のホームの感じはまったく戦前と変わっていない.昔はちょっと雨が降ると水が出て明大前付近はよく不通になっていた.

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下高井戸は当時日大前という駅で東急に合併されて下高井戸になった.東京急行と言っても玉電の駅なので何か小さい電車の方に合わされたみたいで割り切れない感じだった.駅は上りと下りが分かれていて相互に行き来できない状態は平成まで続いていた.玉電の方は山下までに七軒町と六所神社前という停留所があった.戦時中に山下から下高井戸の間の線路は片側が供出されて単線となった.吉村さんによると大師線の延長に使われたらしい.下高井戸の駅から南西に延びる道を行くと松沢国民学校の正門前あたりから冬の天気の好い日には富士山がきれいに見えた.そのまま真っ直ぐ行くと日大の予科があったが,周辺には田圃があり海老蟹が棲んでいた.

次の桜上水までの間の線路に沿って南側にはお花畑があった.つまりこのあたりからそこここに農地があるような状態で都市化の境界線がその辺に及んでいたと言うことであろう.一方,下高井戸駅の北側のマーケットはその頃から賑わっていた.桜上水は車庫があるので急行が止まったし,菱形の行き先板(サボ)をかけた桜上水止まりの電車も多かった.駅前にはわずかの商店がある程度で,駅から100mも行くと原っぱが広がっていた.

上北沢ははすかい対向式の駅だったが,戦後は少し下り方向に移動して島式ホームとなった.八幡山は小さい駅だったが,環七との立体交差で高架となり外側に追い抜き線もできて,最近は昼間は快速も止まるようになった.蘆花公園は変化の少ない駅である.千歳烏山は2面4線の駅で千歳烏山止まりの電車もあったが,戦時中から金子(現在のつつじヶ丘)行きに取って代わられた.電車の編成が長くなり千歳烏山は2面2線の駅になってしまった.千歳烏山の周辺の千歳村は昭和11年に砧村(成城や大蔵など)とともに北多摩郡から世田谷区に編入された.

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柴崎駅 1956年
撮影:おすしさん

仙川は切り通しの中の駅で島式ホームだったが,最近は山手線の渋谷駅のような形で上りホームが増設された.つつじヶ丘(旧金子)は2面3線で折り返し設備はあったが,現在は2面4線の立派な特急待避駅となった.柴崎,国領,布田と同じ形の簡単なホーム待合室がある構造だった.調布はもう少し下り方にあって2面3線の駅だった.つまり京王多摩川への分岐はもっときつい曲線だった.

京王多摩川への支線も複線だったが戦時中に単線になった.京王多摩川は地上で3線の櫛形ホームだった.京王閣は戦後競輪場になってしまったが,戦前は草木も多くゆっくりと遊べる戦後一時流行ったヘルスセンターのような遊園地だった.戦後一時あった京王遊園はまったく別物である.多摩川で泳ぐこともできて,松風そよぐのんびりした行楽地だった.大映や日活,東宝の撮影所も近かった.東宝は砧が主であるが調布にもあってその後が東宝日曜大工センターになっている.京王多摩川行きのサボは円形だった.

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上石原(西調布),飛田給は小駅,多磨霊園は急行も止まり墓参者が多かった.1905年ロシアのバルティック艦隊を日本海海戦で破った東郷平八郎元帥の墓もあり,近くに東郷寺もある.仙川,金子を中心とする神代村と墓地のある多磨村を調布町が合併して調布市となった.東府中は東京競馬場の下車駅で馬蹄形のサボをつけた競馬急行が増発された.このサボは戦後つつじヶ丘行きに流用されていた.府中競馬正門前への線はまだなかった.府中は最近まで地平の2面4線だった.府中行きのサボは戦後は円形を使っていたが前は四角だったように思う.

分倍河原は南武線をオーバークロスしていたが,南武線は単線で30分に1本も電車が来ない寂しいホームがあった.聖蹟桜ヶ丘周辺は国民学校(今の小学校)2年の時(昭和17年)遠足に行ったのと昭和33年に実習に行ったことがある.昭和33年頃でもまだ田圃が多く海老蟹が生息していた.百草園,高幡不動,南平,平山,長沼については記憶がない.

東八王子も戦前には行ったことがないと思う.戦後も長く地平で甲州街道まで達していた.戻るが北野は調布と同じ2面3線の駅で多磨御陵線の分岐駅だった.片倉は記憶にない.休止中に横浜線に駅名を取られてしまった.山田は単線だから片側ホームで乗降も少ない駅だったらしく車掌がお声がなければ止めずに参りますと言うような状態だった.武蔵横山は高架線上の相対ホームでドーム状の屋根を持った立派な駅だった.武蔵中央電鉄は京王電車の車内表示の路線図には描かれていたがすでに廃止されていたのではないかと思っていた.多磨御陵前は櫛形の行き止まり形式のホームだった.

記:2004年11月

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