中島航空金属専用線













2003/01
  フライングタイガーさん からのお便り  
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 小生は、東久留米のフライングタイガーと申します。昭和20年生まれで東久留米育ちです。さて、あなた様が疑問に思われていた部分につきまして、小生の記憶で若干のメモをお送り致します。

  1. ひばりが丘団地内の線路跡は?
    小生の記憶では、ひばりが丘団地の敷地自体が、中島飛行機のエンジン工場の敷地であつたと記憶しています。団地が造成される前は、現在の団地の外周あたりにコンクリート板で塀がめぐらせられており、現在の団地の敷地のほぼ全域が建物もない空き地であり、塀の中での当該引込み線はあなた様が想定で線引きされたように、カーブを描きながら工場の中まで引き込まれていたように記憶しています。(この塀の中の空き地で時々、探検ごつこをしておりました。)
  2. 東久留米での合流状況
    東久留米での合流直前の状況は、現在の変電所までは土手が残っており、あなた様の想定どおりですが、そのあとは若干異なっており、土手と現在も残る変電所横の小道から、東久留米駅のひばりが丘側の線路横にあるみずほ銀行の駐車場まで一直線に伸びてきて、現在の下り線ホームの場所で構内になっておりました。従って、変電所からみずほ銀行の駐車場までの間は、切り通しを埋め立てて、その上に現在の不動産屋さん等の建物が建てられている訳です。
  3. 東久留米駅構内
    東久留米の構内の線路は、たしか5本(または6本)あって、池袋に向かって、
    1. 一番左が現在の上りホームの左側、つまり待避線予定地の空き地(貨物の積み下ろし用)
    2. 左から2番目が現在の上り線ホーム下で、上り本線(清瀬側からは若干左カーブして侵入していたと思います。)
    3. その右側が島式のホーム
    4. 左から3番目(ホームの右側)が下り本線で、現在の下り線の位置そのままだったと記憶します。(清瀬側から見て一直線にひばりが丘方面が見えた記憶があるからです。)
    5. 左から4番目が構内線で、この線が中島飛行機への引込み線に接続していたと記憶します。
    6. 更にその右側に1本か2本の構内線があったように記憶していますが、たしか、小生宅にある駅構内をバックに写した写真で明確になるものと思いますが、その写真も探さないと判りません。この構内の端は、現在の下り待避線予定地です。
  4. 中島線の撤去
    中島線の線路上に永い間放置されていた、多数の鉱石運搬車?(無蓋で底がすり鉢上の貨車)が、現在、保谷の車庫横に放置されている形の蒸気機関車で次々に運び出されたのが、昭和27〜29年頃(団地の造成が始まる前)の田無町駅の名称がひばりが丘駅に変わる前に、撤去されたように思います。
  5. 東久留米の構内線の多さ
    ご存知とは思いますが、西武池袋線は元々は西武鉄道ではなく、武蔵野農業鉄道でして、小生の祖母等は武蔵野線としか呼びませんでした。その武蔵野線の池袋と飯能の間で、ほぼ中間点に位置すると同時に、沿線で随一の水脈を有していた関係で、蒸気機関車の水の補給が、この東久留米で上下線ともに行われていたことを小生の母親から聞いております。その水の補給のための退避線が、中島飛行機エンジン工場がなくても必要であったようです。
  6. 余談
    所沢駅では、現在の新宿線である西武線の駅員と武蔵野線の駅員との間で喧嘩が絶えず、相互の乗換え客の利便性などは全く考える環境にはなく、大変乗り換えに不便な駅であったと母親から聞いております。
以上、思い出すままにメモしました。


 フライングタイガーさん、お便りどうもありがとうございました。やはりこの辺の情報は、地元の方が一番お詳しいですね。東久留米近辺の当時の状況について色々と参考になる部分が多々あり、大変興味深く読ませて頂きました。(H.Kuma)



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