ついについに

こんにちは。

旅行記というよりは、「回顧録」の様相になってまいりました^^:)
前回以来、少し書き続けていた分に、ゆうべ最後まで書き足しました。
まだまだ記憶は衰えておりませんでした。

今回で、やっと五能線の旅も完結となります。

KIXローカル


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第8章

 右手遠くには、海に突き出るようにして大戸崎が伸びている。列車の進行方向とはあまりにかけ離れているが、地図を見ると線路はあの岬の先端まで地形に忠実に敷かれている。あんなところまで回って行くのかと思う。

 車窓近くに目を落とすと、海岸線に沿った車道と線路の間のわずかな敷地に、帯のように民家が連なっている。その裏口すれすれを列車は走り、「GONちゃん」の家の軒先もかすめて行く。GONちゃんは、ある民家に飼われている犬なのだが、犬小屋にかかれた「GON」という文字が読めてしまうほど、列車がすれすれに、かつ低速で走っている。こんなに近くを走られてはGONちゃんも迷惑かと思いきや、運転本数が少ないから、時計代わりぐらいにしか思っていないらしい。彼から直接聞いたわけではないけれど。

 遠くに見えていた大戸崎が間近になって、「千畳敷」という駅に着く。駅前から車道をはさんですぐ目の前に、青味を帯びた奇岩の連なる景色のいいところだ。隆起海岸とでもいうのだろうか。私は関西の人間だから、千畳敷と聞けば南紀白浜、岩のそそり立つ地形を見れば串本あたりを連想する。駅前がすぐ遊歩道の入り口で、駐車場なども整備されている。
 やがて、申し訳ばかりに田畑が散在する篠地にさしかかる。台地がストンと海に落ち込んだ海岸線に沿って、海抜数mの所を列車がなぞって行く。ここからは、珍しく、かつ有名な駅名が連続する。防波堤もない、砂浜と道床の境も判然としないようなところを250Rの急カーブの連続で過ぎると「風合瀬(かそせ)」、漁師の番小屋かと思った建物が、近付いてみれば駅舎だったのが「驫木(とどろき)」。トタン葺の漁小屋が寄り添っているのを見下ろしながら、短いトンネルの連続と250Rを経て「追良瀬(おいらせ)」。文字面を眺めているだけで旅情に浸れるいい駅名だが、それにしてもほとんど裸同然の赤茶けた丘陵地帯の中にポツリと駅が存在したりしていて、こういう所に住んでみるとどんなものかと思う。

 「『驫木』という駅がある。波の音がとどろくところというのが地名の由来だという。次の駅は風合瀬で、風がぶつかり合うところの意。日本海の風波をしのばせるが、駅があるだけで集落はない。不毛の素寒貧としたところだ。」(宮脇俊三「日本探見二泊三日」角川文庫)

 列車が200Rで大きく右に向きを変えた。さっきから急カーブが多く、フランジのきしむ音が鳴りっぱなしである。通り過ぎたトンネルや駅が、はるか左後方に弧を描く海岸線と共にいつまでも見えている。質素な作りの広戸を過ぎ、ビルらしいものも見えてきたあたりで、この列車の目的地である深浦に着いた。12時30分。

第9章

 弘前から乗ってきたこの2826D列車、実は深浦という駅にとっては、弘前からの「一番列車」である。弘前発の上りは朝6時台に2本あるが、いずれも鰺ヶ沢止まりの区間運転で、深浦には達しない。弘前からの空気を運んできた一番列車、だからというわけでもないだろうが、この列車の到着によってその場の空気が華やいだようにも見える。
 華やいでいるのは、地味な生活臭がしないことの裏返しでもある。実際、深浦まで乗ってきた客は、弘前からずっと一緒だった新婚風の若夫婦、あるいはフルムーン風の熟年夫婦、はたまたいかにもマニア風の若者、といった、すでに顔なじみの面々ばかりで、なにやら「五能線体験ツアーご一行」といった風情になってきた。

 2826Dは、到着した上りホームでそのまま1時間を過ごす。何しろ次の上り列車の到着まで3時間あるから、本線にどっかりと居座っていても平気なものである。この1時間を利用して、深浦の街並みを探索する。特にお目当てといったものもなく、日本海の風に吹かれての、きままなお散歩である。
 駅前の国道101号線が町のメインストリートで、深浦町の主要な施設が、駅を中心とした徒歩5分以内の国道沿いに集中している。農協、町役場、消防署、銀行、商店街、ガソリンスタンド、コンビニ、etc.とまあひととおりそろっている。
 駅の南側は、円形に入り組んだ入江になっていて深浦港がある。北前船でにぎわった、由緒ある港町だ。(余談ながら、この町には高校もあるのだが、高校野球の県大会で、相手に100点以上取られてシャットアウト負けを喫した、とマスコミ種になっていた)

 適当な店で食事もしたいが、開いているめぼしい店もなく、国道沿いの探索は止めにして海岸線に出、堤防の上を歩く。雪が風にあおられて舞っているが、日差しは明るい。テトラポットの上には無数のカモメが日光浴をしており、「今年もあったかいな」とばかりにアーアーと鳴きあっている。横なぐりの猛吹雪の中で日本海の荒波を、という勝手な期待は見事に裏切られた。
 前方に、海に突き出した岩礁があり、先端には赤い社が設けられているのが見える。地図には「大岩」と名がある。遊歩道を伝って岩礁の先端まで歩き、切り立った崖の頂上へ登る。高さは20m程もあるだろうか。頂のみ白い山並みを遠景に、切れ込んだ深浦の入り江を一望する。北前船の出入りした往時が偲ばれる。

 これ以上足を伸ばしても何もないので、国道伝いに駅前へ戻る。まだ先の旅路は長く、食事のことを真剣に心配しなければならない。
 まず酒屋に入る。ジャージ姿の大前研一が現れたとおもったら、酒屋の主人だった。愛想も元気もいい人である。

「何をお探しですか?」
「ワンカップあります?」
「それならこちらです。聞いていただいたら早いですよ。
 ・・・今日はいいお天気なんでありがたいです」
「吹雪かと思って来ましたが」
「それなら1月の中頃から2月ですね。でも今年はぬくいです」
「この辺は釣りにもいいんでしょうね」
「そりゃもう。チヌとかマスとか、いろいろ釣れます」

 話好きの酒屋を辞して、隣のコンビニで牛丼弁当を買い、改札をくぐる。おとなしく待っていた列車に再び乗り込み、発車を待ちながら弁当を頬張っていると、車掌がオレンジカードを売りにきた。「リゾートしらかみ」号をあしらったデザイン。深浦は「夕焼け海岸」の周遊指定地であり、駅構内には「ようこそ五能線へ」の大段幕も掲げられている。正月早々、東北のローカル線巡りという客も、決して珍しくはないようだ。

 やがて、あちこち散っていたおなじみの乗客達も戻ってきて、13時29分、列車は東能代を目指して発車した。スジこそ326Dに改まってはいるものの、車両も、乗務員も、そして乗っている客達も、何も変わっていない。五能線深浦駅、遠足バスがお昼ごはんでちょっと一服、といった趣なのだった。

第10章

 深浦を発車すると、いくつかのトンネルが連続し、深浦湾に沿ってぐるりと回りながら高台へと登っていく。
 登り詰めると「鉄道防雪林」の標識がある松林が寄り添い、その向こうは崖、そして海になる。横磯、艫作(へなし)と駅が続き、その間ずっと高いところを行く。手元の地図にも、崖の記号が連続している。
 列車は「早く着いたって仕方ないんです」といわんばかりに、時速40km程度でとろとろと走る。その気になればもっと速く走れるだろうに。松林とクマ笹の向こうに海がなければ、小海線を走っているようだ。雲間から漏れる午後の日差しが海面に反射する。
 深浦町から岩崎村に入って陸奥沢辺。1200m級の白神山地を左に見ながら十二湖、陸奥黒崎、大間越と走って、秋田県に入った。はるか右手には、男鹿半島が島のように浮かんでいる。

 県境を越えると下りになった。コトトン、コトトンと気持ちよく下って14時56分、岩館に着く。交換する下り列車もないのに30分停車する。深浦がお昼ごはんとすれば、岩館はトイレ休憩、といったところか。
 動かない列車は退屈だ。誰彼となくホームへ降り、三々五々風景などながめている。改札を出て、駅前の立て看板を読んでみると「大正15年12月7日開設」とある。この歴史のある駅をあずかるのは、金筋2本の帽子をかぶった伊藤駅長(名札を見たので)。待合室で地元のおばさんと、「お孫さん帰ってきたの?今年もよろしくね」などと会話がはずんでいる。

 急いでいる人など誰もいない。お互い見ず知らずではあるけれど、同じ列車に身をまかせながら、ゆっくりと流れる旅の時間を共有しているようだ。カメラのシャッターを頼まれたのがきっかけで、そんな相客と話をしてみた。東京から来たという、熟年夫婦2組の仲良しグループである。
 ご主人の一人は茶色のハンティング帽と皮ジャンを粋に着こなし、口髭をたくわえたナイスミドル。マイク真木のようだ。子供も独立して悠々自適、機会を作ってはこのグループであちこちと旅をしているという。五能線には3年前にも来たが、その時も雪は少なかったそう。今回は津軽鉄道に乗っての帰路だとのこと。なかなかやってくれます。
 奥さんも「大阪からですって?五能線に乗りに来たの?ああやっぱり!」とすっかり鉄ちゃんのノリで、夫婦お互いに旅の相棒として申分なし。車窓から外ばっかり見ている、と平素カミさんからお叱りを受けているこちらとしては、うらやましい限りである。

 14時56分に岩館を発車。97年10月に開業したばかりの「あきた白神」、続く滝ノ間、八森と走ると日本海とも別れ、東八森を過ぎるといよいよ能代市域に入る。米代川を渡って東へ大きく回りこみ、15時43分、東能代に到着した。弘前を出てから5時間41分、五能線の旅は終わった。
 乗り継いだ「かもしか2号」は指定席、自由席とも満員で、八郎潟までは通路に立つ。「こまち」のたむろする秋田駅に雪はなく、駅前から空港バスに乗り込む。 ジェット機は夜の闇の中を、昨夜「日本海」でたどったルートの真上をなぞるように、ひと飛びで私を伊丹空港まで連れ帰った。出発前に危篤の伝えられた叔父は翌1月3日、癌のため故人となった。


あとがき

 98年1月15日の掲載開始以来1年2ヶ月、ようやく出来上がりました。とりとめのない文章を辛抱強く読破頂いた皆様、メールにて感想を寄せて頂いた方々、また拙文を快く掲載頂いたH.Kumaさんに厚く御礼申し上げます。

 97年12月の人事異動という私的なエポックが、今回の五能線ルポの契機となりました。その後業務多忙により筆も滞りがちとなりましたが(ただ単に安物のキーボードが使いにくかったので、書くのがおっくうだったという説もあり)、98年10月に再び異動により以前の所属に復帰し、1年前をみつめなおしながらのフィニッシュとなりました。

 初めて訪れた五能線は、日常離れした風景の中をひたすらキハに揺られるという、汽車旅実践派の方には絶対おすすめ、看板(何の?)にいつわりなしの線区でした。数こそ多くはないものの根強い観光客の存在と、それに応えようとする地元の姿勢には心強いものがありました。

 また、旅行中は真冬ながら穏やかな気候だったこともあり、暗い印象は少なく、これは本州北辺の真冬のローカル線という先入観からすれば、嬉しい誤算でした。これからも、五能線が今の姿のままで健在であることを祈らずにおられません。

1999年3月

筆 者

※本文中の列車名・時刻等は1998年1月現在のものです。

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