第3章への間奏曲

 この度、「Rail & Bikes」のオーナーであるH.Kumaさんのご厚意により、「五能線レポート」を同ページに掲載頂けることとなりました。
 H.Kumaさんとは、約1年半にわたって電子メールのやりとりをさせて頂いていますが、「関西地方の廃線ルポをお届けします」との初期のお約束をいまだ果たすことなく、今回のルポの掲載となりました。心苦しくはありますが、中年男(でもH.Kumaさんよりはちょっとだけ若い)の旅日記を皆さんのご笑覧に附す機会を得、ありがたく感じる次第です。

 ここまでお読み頂いた皆様にも感謝申し上げるとともに、今のうちにお詫びしておこうと思います。といいますのは、申し訳ないことに、このルポ、まーだまだ終わりそうにありません。第1章でもお読み頂いた通り、人事異動という、至って個人的理由をきっかけに、今回の五能線巡りは始まりました。それゆえ、自分自身の「人生の1ページの記録」としての意味合いも強いものがあり、読者の皆様には無関係な部分も、割愛するに忍びず、冗長を承知の上で、細かく書き込ませて頂きました。名前こそ「五能線ルポ」ですが、そこに至るまでの「心の旅」の記録でもあります。この先も、気長にお付き合いいただければ幸いです。なんてったって、大阪から東北までの道のりは、遠いのですから。

筆者敬白


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第3章

 発車してしばらくの間、通路側窓際の腰掛けに陣取ったまま、窓外の景色を眺める。淀川の鉄橋を渡り、新大阪から東淀川、吹田、岸辺、千里丘・・・と見慣れた風景が流れていくが、自分は今日は普段の国電でなく、寝台特急の客だ。ホームの乗客から浴びる視線も嬉しい。
 京都を発車すると、一夜の宿の「整備」にかかる。身軽な一人旅で、荷物が多いわけではないが、手製のダイヤグラム表や時刻表、時計代わりの携帯電話、メモ帳やボールペンなどはいつでも手の届くところに置いておきたい。あちらでもない、こちらでもないとやっているうちに、ガクンと左に振れる感触がして、東海道本線から湖西線に入ったことが知れる。

 夜行列車の醍醐味のひとつは、おなじボックスの相客やいかに、という点にある。例えば、4人1ボックスのうち、自分以外の残る3人が賑やかなグループだったりすると、確実に住み心地は低下する。こういう場合、その話の輪の中に飛び込んで一緒に盛り上がり、お互いになじんだところで、あとは自分のしたいことを好き勝手に始めてしまうことにしている。これで無用な気兼ねはしなくてすむが、ひっそりとした夜行列車で一夜の孤独を味わいたい、と期待してきたこちらとしては、やはり寝台料金を損したような気になる。
 逆に得した気分になれるのは、1対1の触れ合いに出会った時だ。初めて高千穂を尋ねた際に乗った「彗星」では、子供へのお土産を携え、単身赴任先から家族のもとへ戻るという、良きお父さんが相客だった。出雲へ向かう「だいせん」では、これから松江へ出張だというサラリーマン氏と、束の間だが印象深い会話を交した。こういう出会いがあると、それぞれの人生を乗せて夜行列車はひた走っている、という実感が湧いてきて、乗ってよかった、と思う。

 さて今宵の相客だが、若い女性が、向かいの13番下段に乗っている。上段はすべて空席で、このボックスは私と二人きりである。これこそ最上、と言いたいけれど、実はそうではない。私はあやしい者ではありませんよ(ウソつけ、の声あり)、ということを知ってもらうためにも、何等かのパフォーマンスを展開したいのだが、こちらからやたらと話しかけるわけにもいかず、ほとんどの場合、ひたすら沈黙が支配する。
 トイレなどで席を立つ時に会釈くらいはするし、その時の相手のノリ次第では、非常に楽しい会話に発展する可能性もあるが、最初からそういうことを期待して夜行列車に乗り込んでいるわけではない。もっともこの女性、大阪駅での発車間際まで、見送りのちょっとヤンキーっぽい彼氏とホームで睦まじくしていたから、「そういうこと」は始めから期待できないであろうことがわかっており、やっぱり何か張り合いがない。

 ところで自分自身はどうかといえば、恐らく相客にとっては敬遠すべき存在だろう。今どこを走っているのかと、時刻表だの各種資料だのをゴソゴソめくっては、窓ガラスに顔を押し付け、頭からカーテンをかぶって外の夜景を眺める。反対側の景色も見たいから、ひんぱんに寝台を出入りする。かと思えば、一心不乱にメモを書き続け、高い寝台料金を払っているのに、いっこうに寝る気配が無い。(オレもそうだ、とうなづいている人は多いはずだ)。足音などで迷惑をかけることのないように気をつけているつもりだが、相手にすれば、挙動不審の男が一人で乗り込んで来た、と気味悪くて仕方ないだろう。幸い私は、こういう人種と夜行で乗り合わせたことはない。

第4章

 なんだかんだとやっているうちに、湖西線の終点である近江塩津の景色を見逃してしまう。湖北の入り組んだ地形の山間を縫って、米原方からの北陸本線が寄り添い、やがて湖西線と合流して、山間の殺風景な場所柄には不釣り合いな、広い近江塩津の構内に進入するシーンは、何度見ても飽きないのだが。
 有名なループ線へと続く、上り線の高架がオーバークロスしていく。まもなく敦賀だ。京都からノンストップで1時間以上かかる。案外遠いのだな、と思う。まだ北陸ではないが、何といっても日本海側であり、ちょっと遠くへ来たな、という気はする。東京界隈の人が箱根を越えたら、こういう気分になるのだろうか。
 相客の女性はカーテンを閉め、寝る体勢を整え始めた。備え付けの浴衣に着替えていると思しき衣擦れの音なども聞こえてきて、妙に艶めかしい。うれしはずかし、とはこういうことをいうのだろう。

 19時30分に敦賀到着。7分停車だというのでホームに降り、旅の空気を思い切り吸ってみる。さすがに裏日本で、ピリッとした冷たさを感じるが、雪は全くない。
 ひっそりとしたホームを東端まで歩く。北陸自動車道のナトリウム灯くらいしか目立ったものはなく、北陸トンネル開通までの難所だった木の芽峠へと続く稜線も、暗くて見えない。編成の先頭まで行ってみる。赤い電機の機関士は何か本を読んでいる。時折、思い出したように単機用のブレーキハンドルに手をやって、シュ、シュと利きを確かめている。
 敦賀のホームの敷石は、明治だか大正だかの往時そのままだ。「鉄道ファン」誌に掲載された古い写真を手にここを訪れ、実際の風景と照らし合わせて、写真が撮影されたのと同じ場所に立ってみたこともある。その時は、当時使われた「ランプ小屋」が、準鉄道記念物か何かとしてホームに残っていたのだが、今日探してみるとみあたらない。ホームが1本違ったようだ。
 その隣のホームに、金沢行きの「雷鳥」が後からやってきて、我が「日本海」を追い抜いて出ていく。自作のダイヤグラム表によれば、大阪から弘前までの間に、特急14本、急行1本、計15本の優等列車とすれ違うことはわかるが、特急が特急を追い抜く、というパターンまでは考えていなかった。
 あっという間に7分停車が過ぎて発車。さっきホームから見た北陸自動車道が頭上をまたいでいく。この交差地点あたりの線路際には、北陸トンネル工事殉職者の慰霊碑があるはずなのだが、暗くてよく見えない。北陸本線旧線跡の道路もそのあたりから分岐していくのだが、久しぶりに来たせいか、これまたよくわからないままに列車はトンネルに入った。いよいよ北陸路である。

第5章

 トンネルの内壁に、ほおづえをついて外を眺めている自分のシルエットが映っている。以前にここを通ったのは、いつの事だっただろうか。そんなことをぼんやりと考えるうちに、トンネルを抜けた。
 「今庄です。運転停車のため、扉は開きません」と車内放送がある。運転停車、という専門用語を使うのは珍しいように思う。普通ならば、「時間調整のため・・・」などというだろう。自分のようなマニアはいいけれど、一般の乗客はわかるのかな、と思う。下りの「しらさぎ」に追い抜かれる。5分停まって、20時ちょうどに発車。
 大阪駅を出発して以来、約2時間続いた一種の興奮状態もここで一段落して、駅弁を頬張りながら、流れていく夜景を眺める。古い街道筋にふさわしい、地味な作りの家が数軒ずつかたまっては、駅界隈の集落を形成していて、どの家の窓からも明りが漏れている。あの明りの下では、家族揃って元日の夜の楽しい膳を囲んでいることだろう。家族の事を、ふと思う。

 腹ごしらえが済むと、やはり眠くなる。夕べの大晦日は深夜から初詣に出かけ、就寝は今朝の3時だった。しかし、この先いくつかの楽しみがあるので、まだまだ寝るわけにはいかない。20時56分、加賀温泉に到着。「スーパー雷鳥」に抜かれる。
 浴衣に着替えてシーツを敷く。久しぶりの寝台車の感触だ。ここでぐっすり眠れば翌日は快適に行動できるけれど、0時台に上りの「きたぐに」や「日本海2号」とのすれ違いがあり、これだけは見届けておきたい。あと3時間余りある。
 21時33分の金沢で親子連れが乗り込み、車内が少し活気付いたが、発車するとおやすみ放送があって車内は減光された。横になって宮脇氏の本を読むが、いつも通勤の車中で読むのとは印象が違う。旅に出たい、とあこがれながら読むのとは違って、自分自身が旅の途中にあるせいか、今ひとつ読書に身が入らない。紙面からふと目を上げると、そこは寝台の中である。ゴトゴトと揺れてもいる。事実の方が小説よりおもしろい、ということだろう。
 これから尋ねる東北の地図を開き、五能線の線形などを見るうちにまた列車が停まり、数人が乗り込む気配がした。22時21分、富山。窓の外をみると妻面だけが赤く塗られたDCが隣のホームに停まっていて、行先表示には「猪谷」とある。ここは高山本線への分岐点なのだ。トンネルに挟まれた山間の猪谷駅の様子が思い出される。
 「富山」の文字を見ると「ますのすし」を思い出す。ピンク色の身をしたあの名物駅弁が頭にちらついて、条件反射で酒が欲しくなり、とっておきのワンカップを開けた。

 列車は新潟県に近づいている。寝台の上にあぐらをかき、窓際のテーブルを背もたれ代わりにして、進行方向に向けて座る。今朝からのこと、出発の時のことなどを思い起こしてみる。
 親不知あたりで、初めて日本海を見る。連続するトンネルの合間から、列車の明りに透かして、浜辺へ寄せては返す波のうねりが見えるが、そのむこうは果てしない闇が続いている。寂しさが増幅する。
 波打ち際に、北陸自動車道の高架が走り、「天下の険 北陸道4車線化工事」のボードが掛けられている。道路作りに携わる人の心意気が感じられる。
 座ったり横になったりをくり返しているうちに、天気が目まぐるしく変わっているのに気がついた。大阪を出た時は曇っていて、敦賀では一雨きたあとのようにホームがしっとりと濡れていた。富山あたりでは晴れていて星が見えたし、新潟県に入ると時折小雨がパラついているようだ。なかなか不安定なのだが、共通しているのは、ここまで来ても全く雪がないことだ。一体どうなっているのかと思う。
 直江津〜新津間で、0時台に「きたぐに」「日本海2号」とすれ違い、さらに新津を出てから、2時近くになって、「日本海4号」とのすれ違いを見届けた。「4号」は編成や運用の面で、今乗っている「1号」の分身のような列車だから、これを見ないと「日本海」への義理が果たせない。これから先は、秋田〜東能代間で5時50分頃に普通列車とすれ違うまで、対向する営業列車はない。やれやれという気になって、寝台にもぐりこむ。あとは覚えていない。

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