Banner 2003/10 K.I.

はじめまして、福生砂利引き込み線の脇にある福生第四小学校の前身である福生第一小学校分校の第一期生のK.I.です。
小学校は昭和32年4月から第一小学校の分校として5年生と3年生で開校しました。私は当時3年生で鉄路やパラレルラインを見るとすぐそれを追いかけるおかしな少年でした。
当時、砂利線は電化されており午前10時頃と午後3時頃の2回ED16がトム貨車数量を引いて時にはデッキに職員が旗を振りながら校庭の鼻先を往復していました。
福生駅には貨物取り扱い用の引込み線(退避線)が何本かありました。今は無くなってしまいましたが大谷石の倉庫も2〜3棟ありました。
砂利線は学校からの近道でよく歩き先生に怒られました。また、川原に行くときには玉川上水の鉄橋を渡るのですが高欄(手すり)も無くスリリングでした。
たまに福生に帰ると砂利線跡を歩き40年前のことを思い出します。
ちなみに私も自転車、バイク、車、船、飛行機などメカニカルな物が歳をとっても大好きです。
それでは、また何か思い出したときにはメールさせていただきます。


さて、砂利線で思い出したのですが、青梅線も昭和35年までは単線でした。そして、福生駅には「日本通運」の倉庫や石炭の貯炭場などもありました。
今とは違い上り線と下り線のホームは別々で跨践橋ではなく踏み切りのように線路まで降りて渡っていました。
福生駅は今はただのつまらない島型ホームになってしまいましたが昔(単線の頃)は引込み線や待避線が何本かある中堅どころのえきでした。
複線化され福生始発「東京行き」や東京発「福生行き」が朝夕1本づつありました。今は切り替えポイントも無くなりそれも無くなりました。
また、中学校も牛浜駅と拝島駅のあいだの線路沿いであったため窓際の席になった時は戦前の17m級の電車をよく眺めていました。
今も私はJR外房線の線路脇に家をかまえ113系の大きな音で目を覚ましています。
それではまたメールします。


先週の週末に福生に帰りました。
土曜の夕方、弟と飲み屋に行く途中工事中の「西友」西側の人専用踏み切りを渡たりました。
そのおり、小学生当時の福生駅構内の線路配置の話になり飲み屋でも昔話で盛り上がりました。
その時の話をもとに線路配置を書いてみました。
ポイントの位置や箇所数は定かではありませんが大体合っていると思います。

 昭和35年頃まで(複線化前の福生駅構内線路敷設略図)

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こう見ると今の「福生駅」に比べても立派な配線だと思いませんか。
各待避線には毎日のように貨車が数両止まっていました。
構内の貨車移動には「テコ棒」をよく使っていました。

当時の道路は舗装されているところはほとんど無く、せいぜい砂利舗装でした。
国道ですら市街地だけの舗装でその他郊外は砂利道でした。
コンクリート舗装は現在の国道16号線と五日市街道の拝島から東京まで、そして奥多摩街道の旧道の拝島から立川までがされていました。
これらのルートは米軍の基地と基地を結ぶ道で戦後米軍が占領軍の頃に整備したものです。


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