中央線武蔵境から出ている西武の多摩川線に「多磨」という駅がありますよね。 この駅、以前は違う名前だったんですが、最近の若い方はご存知ないかも知れませんね。 元々は「多磨墓地前」という駅名でしたが、付近の開発に伴って墓参以外の利用者が増え、「墓地前」が消されて「多磨」となりました。 そしてこの「多磨」という駅名自体、昔は少し離れた別の駅に付けられていたという事実を、知っている人はさらに少ない事でしょう。
では、以下に、この近辺の様子を簡単な地図と共に、歴史を追って説明してみたいと思います。
2013/11
中央線武蔵境から出ている西武の多摩川線に「多磨」という駅がありますよね。 この駅、以前は違う名前だったんですが、最近の若い方はご存知ないかも知れませんね。 元々は「多磨墓地前」という駅名でしたが、付近の開発に伴って墓参以外の利用者が増え、「墓地前」が消されて「多磨」となりました。 そしてこの「多磨」という駅名自体、昔は少し離れた別の駅に付けられていたという事実を、知っている人はさらに少ない事でしょう。
では、以下に、この近辺の様子を簡単な地図と共に、歴史を追って説明してみたいと思います。
この地に最初に到達した鉄道は京王電気軌道(現 京王電鉄)。 新宿から順次路線を延長して来た京王電軌は、1916(大正5)年に飛田給から府中までを開通させ、途中に多磨(現 多磨霊園)駅を開設します。 そう、昔の「多磨」駅は西武でなく京王線にあったのです。 付近は街道沿いを除いては人家も少なく、一面の畑だったようです。 一方の多摩川線は、多摩鉄道という会社が1917(大正6)年に境(現 武蔵境)駅から北多磨(現 白糸台)駅までを開通。 2年後には京王の線路下を潜り、レールは多摩川左岸に達します。 この会社はもともと多摩川の川砂利を採取する目的で設立されていたからです。
多摩と多磨で「摩」と「磨」と、違う漢字が使われています。 ここは鉄道が出来た当時の地名が「北多摩郡多磨村」という表記だった為に、その多磨村からとられたそうです。 同時期に南多摩郡には多摩村があり、そこは現在の多摩市、多摩ニュータウンの場所になります。 ちなみに多摩川に関しては「玉川」という書き方も存在します。 玉電なんてのも、かつて走ってましたね。
1923(大正12)年、両鉄道路線の近くに東京市が作った多磨墓地が開園します。 当時、東京市の公園課長であった造園家、井下清は、ドイツの「風景墓地」を研究し、それを参考として公園墓地を作ったのです。 都心から離れていた事もあり当初は園内も閑散としていたようですが、その後関東大震災の影響などにより郊外部の人口が増え、徐々に墓地利用者は増え始めます。 墓地開園から6年ほど経った1929(昭和4)年、既に西武となっていた多摩川線(当時は多摩線)に「多磨墓地前」駅が出来ます。 多磨墓地まで徒歩5分前後の最寄り駅となり、駅前から墓地の正面入口までの沿道は石材店や花屋などが軒を連ねます。 1932(昭和7)年には京王線の多磨駅も「市公園墓地前」と改称されます。 しかし「前」と言いつつこちらは多磨墓地からは少々離れており、歩くと20分程かかってしまう位の距離がありました。
大正期に東京市街地部の墓地は満杯となり、市郊外の東、北、西側に大規模な墓地の建設が計画されました。 その第一号として開園したのが、西方墓地にあたる多磨墓地というわけです。 次に作られたのが東方墓地となる八柱霊園、何と東京市の施設なのに千葉県にあります。 この時に初めて霊園という言葉が使われ、多磨墓地も同時に多磨霊園と改称されたのです。 北方墓地にあたるのは、西武新宿線沿線にある小平霊園です。 北方と言いつつ、ここは多磨霊園よりも西側にあります。
1935(昭和10)年に多磨墓地は多磨霊園と改称されます。 1937(昭和12)年、それに追随して京王の「市公園墓地前」は「多磨霊園」駅となり、この時の駅名が今に至ります。 さすがに遠いので「前」は外したようですね。 このタイミングでは、多摩川線の方は「多磨墓地前」のままです。 西武鉄道は墓地と霊園の呼称の違いにあまり拘らなかったのでしょうか。 ちなみに付近の交差点名なども、未だに「多磨墓地…」の物と「多摩霊園…」となっている所が混在するようです。
墓地と霊園、あまり意識して使い分けた事のない言葉ですが、調べると明確でした。 墓地は死者を葬って墓を建てる区域、墓場のこと。 霊園は、公園風に造成された公園墓地のことを言うそうで、多磨霊園が日本初のもの。 イメージ的には墓地と言うと、地方で良く見かける田畑の一角に設けられたものや、寺社の敷地内にある墓場といった所でしょうか。
その後は戦後に至るまで駅名の変更はありませんでしたが、21世紀最初の年に入って多摩川線の方は大きく変わります。 きっかけは線路東側にあった米軍の関東村跡地が開発され、そこに病院や大きな大学が移転して来た事。 通院患者やキャンパスの若者達の乗り降りする駅が「墓地前」というのはいかがなものか、という配慮から?2001(平成13)年、「墓地前」を削って「多磨駅」となります。 その割りを食ったのがお隣の北多磨駅で、多磨駅の南にあるのに「北多磨」とはこれいかにという事で、住所である「白糸台」に同時改名されました。 開通時からの伝統ある北多磨という駅名が、こうして玉突き的に失われてしまったのは皮肉なものです。 もう一方の京王線「多磨霊園」も、もう「霊園」を外すべきという意見もあるようです。 でも「多磨」は西武にとられてしまったし、そうなったらどう命名するのですかね?
京王線の多磨霊園駅隣にある「武蔵野台」駅も、1959(昭和34)年にそれまでの「車返」から駅名変更されています。 改名の理由は「車を」「返す」と脱線転覆が連想されて縁起が悪い、等とする噂もあるようですが、実際の所どうなんでしょう。 しかし当初の多磨駅といい武蔵野台駅といい、京王はなかなか広域な地名を駅に用いますね。 「武蔵野台」なんて、関東平野の東京から埼玉あたり、どこにあっても不思議でない駅名じゃないでしょうか。