<特集>下総快速鉄道 1977/?? 
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 ・・・いつの頃からか、古びた木造のサークル棟に近い門の外に、いくすじかの銀色のレールが鈍い光を発するようになっていた。私がある日、手持ちぶさたでその門によりかかっていると、風に乗ってかすかなジョイント音が聞こえて来た。やがて軽いモーターの唸りと共にその電車が現れ、目の前にドアを開けて止まった。私は言い知れぬ感情におそわれ、門を背にして歩を進めると、いつドアを閉じたのか窓外の景色は急速に流れ始めた。車内には私一人であった。淡い日差しが窓のさんを映す深みどりのモケットに腰を下ろすと、先ほど入って来たドアのわきに SRR. とイニシアルが光っているのに気づいた。・・・

 私がSRR(下総快速鉄道)の存在を知ったのは、こんな経験からでありました。ご存じのように、東京のベッドタウンとしての房総への人口流入は激しく、それに応ずる鉄道として、北総開発、千葉県営鉄道などの建設計画は知ってはいたものの、さていつの間にこんな会社が出来たのか? その後しばらくして、幸いにもSRR社長にお会いする機会に恵まれました。その際に伺ったお話を、以下に報告いたします。


Image 路線開業の経緯

 社長は新京成電鉄沿線の高根の住人だそうで、SRR敷設を思い立ったのも元はと言えばこの新京成の影響なのです。
 東京方面に行くには(国鉄に乗るにしても京成にしても)一度津田沼へ出なければならないので、どうしても遠回りする事になる。おまけに乗り換えがめんどうだ・・・という事だそうです。

Map
第1図 第2図
 そのため、最初は第1図のような路線が考えられましたが、後々の事を考えると高根公団以遠の客から「これは社長の陰謀デアル!乗客無視のひどい迂回路線だ。」とクレームがつきそうだったので、高根公団を支線の終端駅に格下げして第2図の路線に落ち着きました。しかし広報部の表向きの発表は、以下の通りです。

 ”当社は当初千葉ニュータウン内乗り入れを目指して設立されましたが、ニュータウン完成の遅れのため、とりあえず下総有数の大団地があり、新京成とのコンタクト地点でもある高根公団までを完成させる事とし、東京〜高根公団をS.44着工、S.46開通させました。

Map  同区間は高根公団から南西へ、東武をオーバークロスして東中山へ接続、さらに総武線を越えて行徳北部を一直線でかすめ、砂町から小名木川上を高架で通過し、東京駅八重洲口地下へ至るというコースで、特に都内へ入ってからは難工事で 3年間で開通の運びとなった事は、実に驚きにたえません。

 その後、総武,京成線の混雑緩和のため東中山から千葉へ路線を延長する事とし、S.48東中山〜南千葉を開通、南千葉は京成千葉を当社との合同駅として改築したものです。

 さらに南千葉〜亀山温泉をS.51単線で開通させましたが、同区間には当社最長の養老トンネル他、多数のトンネルがあり、かなり工費はかさみました。なお近い将来、当初の目的としたニュータウン乗り入れ線と、亀山から安房鴨川への路線延長が計画されております。”


Image 車両工場概要

 さて車両工場は高根公団にあるとの事で、社長に同行して視察に乗り込みました。駅前から 10分程歩いた所です。なんと住宅地のド真ん中。最近は騒音公害の規制が厳しいのか、操業が滞っているようです。工員が一人、錆びた鋸を磨いています。工場長らしき人が、白い歯を見せてやって来ました。


工場長:「やぁ社長、今屋根を 1枚削り上げたところでね。」
 手にはかんなを持っています。ハテ、屋根は張るものでは...?

社長:「工場長クン、ED1 は最近見ないがどうしたね。」

「例の青いヤツですか... 廃車にしました。」

「おや、そうかい。アレはうちのオリジナル第1号じゃなかったのかね。」

「いャ、かなり痛みがひどかったもんで。」

私:「あのォー、もしよろしかったら見せて頂きたいのですが。」

「もう解体しちゃったんでねェ。でもどうしてもっておっしゃるんなら...。」

 工場長が案内してくれた建物の中には、台車がポツンと置いてありました。これが、SRRで購入した第1号台車(*注1)だそうです。

注1:1号台車
かつては 157系についていた。157系廃車の後、ED-1、DF50モドキなどを転々として、現在は工場の片隅に眠る。近々社長専用車の製作が噂され、その際には再び引っぱり出される可能性がある。国鉄では DT24 と呼ばれるようだが、社内では "不死身の 1号台車" で通っている。

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