戦後はこの飛行場も含め敷地は米軍に接収されますが、その一部は水耕農園として使用されたそうです。その頃、もっぱら人糞を肥料として育てられていた日本の野菜を、米軍の人たちは食べられなかったため、ここで野菜を作って各地の部隊へと送っていたらしいです。専用線の名前も、当時は「米軍第8002化学農場線」とされました。
 その後この地は先に記した関東村を経て、昭和49年に日本に返還されます。現在飛行場以外の部分は、グランド、東京外国語大学、警察大学校、そして南端には東京スタジアムが誕生しています。

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