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第四回:四国 2020/12 Dummy

大正十四年の鉄道地図を探る

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「全國鐵道地圖」、昨年に続きピッチを上げて行きましょう!(笑)  今回は四国地方、及び地図上の位置の関係で淡路島も一緒に見てみる事にします。 例によって手っ取り早く全体を俯瞰したい場合は、全体図 の方をご覧いただければと思います。 また凡例は地図中(高知沖の土佐湾付近)にありますので、ここでの掲出は省略致します。

https://hkuma.com/rail/railmap04.html#01

香川

既に本州側の宇野線が開通し、宇高航路が本四連絡ルートとして主役の座についています。 記載は無いですが、この地図発行前年に高松駅構内扱いで桟橋まで線路を伸ばして高松桟橋駅が設けられ、連絡船からの乗換客の便宜を図っています。 その後昭和34年に高松桟橋駅付近に2代目の高松駅が設けられ、それ以降、本四架橋が開通するまで使われました。 ある程度以上の年齢の方は、連絡船から乗り換えるこの駅が懐かしいかも知れません。 その高知を始発点とする予讃線は伊予大井(現大西)駅まで、地図の記載は讃豫線となっていますが、大正12年に讃岐線から讃予線へ改称されています。 土讃線方面は讃岐財田駅止まりで、行く手には山岳地帯が控えています。 私鉄はことでんが築港前~志度までで当時の社名は「四国水力電気」、長尾線は別会社の高松電気軌道です。 丸亀~琴平を結んでいるのは、後に廃止された琴平参宮電鉄です。

https://hkuma.com/rail/railmap04.html#02

徳島

四国4県相互でまだ鉄道が繋がっていないこの時代、徳島地方の表玄関は大阪航路の船が着岸する小松島港でした。 それ以前より徳島港があったものの、そこは大型船の入港が難しかった為に代わって整備された港です。 その小松島港と徳島を結ぶ鉄道は乗客増を狙う汽船会社が建設したもので、開通と共に国が借上げ、小松島軽便線として営業しました。 その途中から分岐して南へ向かうのは阿南鉄道で、那賀川手前の古庄まで。 これは後に国有化され、牟岐線の一部となっています。 徳島から西の徳島本線(現徳島線)は阿波池田まで開通、琴平方面から伸びて来た土讃線と佃(信号場)で繋がるのは4年後の事です。 一方、吉野川の北側で路線を伸ばす阿波軌道、地図には海岸沿いを高知方面へ向かっているように描かれていますが、終点の鍛冶屋原(地図には鍛冶屋と記載)は実際には吉野川に沿ったすぐ北側の移置(「徳」の字の下あたり)。 正式名称は阿波電気軌道ですが結局電化はされず、後に国へ移管され鳴門線及び高徳線の一部となりました。

https://hkuma.com/rail/railmap04.html#03



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愛媛

予讃線が伊予大井(現大西)駅まで来ている以外は私鉄王国な愛媛、その筆頭は何と言っても日本初の軽便鉄道であるところの伊予鉄道です。 坊ちゃん列車としても有名ですが、地図上では既に高浜線、横河原線、軍中線、古町から道後温泉へ至る路線も描かれています。 立花で分岐している森松線も見えますが、こちらは昭和40年に廃止されました。 一方で、長浜町(現伊予長浜)から大洲(現伊予大洲)を経て内子へ至る愛媛鉄道は、現在では予讃線の通称「海線」部分、及び内子線となっています。 当時は大洲でスイッチバックせずに直通出来るような線形になっていたようですね。 南の方では宇和島から吉野(現吉野生)へ至る宇和島鉄道、こちらは軽便規格で建設されたため、後に予土線へ編入される際は改軌が必要でした。

https://hkuma.com/rail/railmap04.html#04

高知

この時代、高知エリアの国有鉄道は高知~須崎間の高知線のみ。 この線は資材を須崎港から搬入して建設が開始された為、須崎は高知線の起点駅として開業しました。 高知線は後の土讃線ですが、多度津側とレールが繋がるまで、あとまだ10年待たねばなりません。 さらに予土線区間が完成して宇和島へと抜けられるようになるのは1974(昭和49)年ですから、つい最近(笑)私が高校生の頃になりますね。 私鉄では、高知の市街地を走る土佐電気(旧土佐電鉄、現在のとさでん交通)が、既に後免から伊野まで路線を延ばしています。 後免から先は高知鉄道として手結まで開業済み、終点の安芸に至るのは5年後、昭和5年の事です。

https://hkuma.com/rail/railmap04.html#05

淡路島

淡路島で唯一の鉄道である淡路鉄道も洲本口から賀集までの路線が記載されていますが、この年の6月には福良まで延伸して全線開通を果たしています。 地図が発行された大正末期の時点では洲本口~賀集間を1時間前後で走り、一日9往復程度の運行を行なっていたそうです。 その後1965(S.40)年の集中豪雨により線路が寸断され、モータリゼーションによる乗客減も相まって翌年に全線廃止となっています(廃止時社名は淡路交通)。 廃線跡の一部は本四連絡経路の一つ、神戸・鳴門ルートにもあたりますが、大鳴門橋は鉄道を通す準備工事がされたものの、明石海峡大橋の方は最終的に道路専用橋となってしまい、鉄道路線としては見通しの立たない状況なのが残念ですね。

https://hkuma.com/rail/railmap04.html#06